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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第26話 好みと論争とカレーと
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その日の発端は、あまりにも些細な一言だった。
「……今日の賄い、カレーにしない?」
厨房でそう言ったのは、佐山結だった。
神谷奏はまな板の上で包丁を止め、ほんの一瞬だけ結を見た。
「いいが……どのカレーだ」
「え?」
「カレーにも種類がある」
その言い方が、妙に真剣だった。
その瞬間、空気が変わった。
「ちょっと待って、それ重要よ?」
フロントから聞こえてきたのは、三条京子の声だった。
「カレーはね、煮込みよ。バターと小麦粉と玉ねぎを、根性で炒めるの。
あれは“忍耐の料理”なのよ」
「いやいやいや」
即座に反論したのは、夜はバーテンダー、昼はつなぎ姿の田町舞だった。
「カレーはスパイス。香りと火入れ。
素材と対話する料理だと思ってる」
「……インド風派ですね?」
結が確認すると、舞は静かにうなずいた。
そこへ、清掃用具を抱えたまま、いつの間にか山本静江が立っていた。
「……カレーは、一晩寝かせると美味しくなります」
「欧風派!!ですね!!!」
京子が指をさす。
「ほら見て! 欧風は“時間”なのよ!」
――そして、その様子を黙って見ていた奏が、ぽつりと言った。
「……インドにも、寝かせるカレーはある」
一瞬の沈黙。
「奏さんまで参戦!?」
結が思わず声を上げる。
こうして、ホテル史上もっともどうでもよく、
そして誰も譲らない カレー論争が始まった。
「まず前提として」
支配人・木島五郎が腕を組んで言った。
「今日の賄いは一種類だ。
メニューを二つに割る余裕はない」
「じゃあ決めましょう」
京子が拳を握る。
「多数決で!」
「ダメだ」
奏が即答した。
「カレーは思想だ。数で決めるものじゃない」
「重いです!!」
結が思わず叫ぶ。
冬休みアルバイト中の高橋千夏は、目をきらきらさせながら成り行きを見ていた。
「え、えっと……私はどっちも好きです……!」
「中立はだめよ、千夏ちゃん」
京子が優しく、しかし容赦なく言った。
「選ぶのよ!!」
「ひぃ……」
快が苦笑しながら助け舟を出す。
「まあまあ。じゃあ、特徴を出し合ってみよう」
「いいわね」
結がホワイトボードを持ってくる。
【インド風カレー派】
・スパイス命(舞)
・胃に優しい(奏)
・作るたび味が変わる(結)
・香りで人を救える(舞)
【欧風カレー派】
・バターと小麦粉(京子)
・一晩寝かせる(静江)
・ご飯に合う(快)
・“家庭”の味(千夏)
書き出してみると、どちらも強い。
「あの……」
千夏が小さく言った。
「これ、どっちが“正しい”とかじゃなくて……
その人が、どんな時に食べたいか……ですよね?」
その言葉に、少し空気が静まった。
奏が鍋を見つめたまま言う。
「……インドで食ったカレーは、
旅の途中で、金もなくて、体も限界だった時だ」
結が息をのむ。
「でも、あれで立ち上がれた。
だから俺は、スパイスを信じてる」
今度は京子が、少し声を落とす。
「私が欧風派なのはね……
誰かが作ってくれた記憶があるから」
静江が静かに続ける。
「……掃除が終わった夜に、
残っていたカレーを食べたことがあります」
誰も知らなかった過去。
ぬくが、全員の足元を回り、最後に結のところで止まった。
結はゆっくり言った。
「……じゃあさ」
「?」
「どっちも作ろう」
「支配人!」
全員の視線が木島に集まる。
木島は少し考えて、にやっと笑った。
「よし。
スタッフ総出・カレー対決 だ」
結果は――引き分けだった。
インド風カレーは、香りで食堂を包み、
欧風カレーは、静かに胃と心を満たした。
千夏は両方を食べ、どちらも美味しすぎて驚きながら
「……どっちも、凄く美味しいです!!!!」
奏は鍋を洗いながら、ぽつりと言った。
「……料理は、勝ち負けじゃないな」
ぬくが尻尾を振る。
ホテルの夜は、カレーの香りとともに、
いつもより少しだけ、賑やかに更けていった。
第27話「お坊さんと12月と尼さんのおなら←料理名です」につづく
「……今日の賄い、カレーにしない?」
厨房でそう言ったのは、佐山結だった。
神谷奏はまな板の上で包丁を止め、ほんの一瞬だけ結を見た。
「いいが……どのカレーだ」
「え?」
「カレーにも種類がある」
その言い方が、妙に真剣だった。
その瞬間、空気が変わった。
「ちょっと待って、それ重要よ?」
フロントから聞こえてきたのは、三条京子の声だった。
「カレーはね、煮込みよ。バターと小麦粉と玉ねぎを、根性で炒めるの。
あれは“忍耐の料理”なのよ」
「いやいやいや」
即座に反論したのは、夜はバーテンダー、昼はつなぎ姿の田町舞だった。
「カレーはスパイス。香りと火入れ。
素材と対話する料理だと思ってる」
「……インド風派ですね?」
結が確認すると、舞は静かにうなずいた。
そこへ、清掃用具を抱えたまま、いつの間にか山本静江が立っていた。
「……カレーは、一晩寝かせると美味しくなります」
「欧風派!!ですね!!!」
京子が指をさす。
「ほら見て! 欧風は“時間”なのよ!」
――そして、その様子を黙って見ていた奏が、ぽつりと言った。
「……インドにも、寝かせるカレーはある」
一瞬の沈黙。
「奏さんまで参戦!?」
結が思わず声を上げる。
こうして、ホテル史上もっともどうでもよく、
そして誰も譲らない カレー論争が始まった。
「まず前提として」
支配人・木島五郎が腕を組んで言った。
「今日の賄いは一種類だ。
メニューを二つに割る余裕はない」
「じゃあ決めましょう」
京子が拳を握る。
「多数決で!」
「ダメだ」
奏が即答した。
「カレーは思想だ。数で決めるものじゃない」
「重いです!!」
結が思わず叫ぶ。
冬休みアルバイト中の高橋千夏は、目をきらきらさせながら成り行きを見ていた。
「え、えっと……私はどっちも好きです……!」
「中立はだめよ、千夏ちゃん」
京子が優しく、しかし容赦なく言った。
「選ぶのよ!!」
「ひぃ……」
快が苦笑しながら助け舟を出す。
「まあまあ。じゃあ、特徴を出し合ってみよう」
「いいわね」
結がホワイトボードを持ってくる。
【インド風カレー派】
・スパイス命(舞)
・胃に優しい(奏)
・作るたび味が変わる(結)
・香りで人を救える(舞)
【欧風カレー派】
・バターと小麦粉(京子)
・一晩寝かせる(静江)
・ご飯に合う(快)
・“家庭”の味(千夏)
書き出してみると、どちらも強い。
「あの……」
千夏が小さく言った。
「これ、どっちが“正しい”とかじゃなくて……
その人が、どんな時に食べたいか……ですよね?」
その言葉に、少し空気が静まった。
奏が鍋を見つめたまま言う。
「……インドで食ったカレーは、
旅の途中で、金もなくて、体も限界だった時だ」
結が息をのむ。
「でも、あれで立ち上がれた。
だから俺は、スパイスを信じてる」
今度は京子が、少し声を落とす。
「私が欧風派なのはね……
誰かが作ってくれた記憶があるから」
静江が静かに続ける。
「……掃除が終わった夜に、
残っていたカレーを食べたことがあります」
誰も知らなかった過去。
ぬくが、全員の足元を回り、最後に結のところで止まった。
結はゆっくり言った。
「……じゃあさ」
「?」
「どっちも作ろう」
「支配人!」
全員の視線が木島に集まる。
木島は少し考えて、にやっと笑った。
「よし。
スタッフ総出・カレー対決 だ」
結果は――引き分けだった。
インド風カレーは、香りで食堂を包み、
欧風カレーは、静かに胃と心を満たした。
千夏は両方を食べ、どちらも美味しすぎて驚きながら
「……どっちも、凄く美味しいです!!!!」
奏は鍋を洗いながら、ぽつりと言った。
「……料理は、勝ち負けじゃないな」
ぬくが尻尾を振る。
ホテルの夜は、カレーの香りとともに、
いつもより少しだけ、賑やかに更けていった。
第27話「お坊さんと12月と尼さんのおなら←料理名です」につづく
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