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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第35話 kissと鱚とホイル焼きと
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その料理名を聞いた瞬間、佐山結は一度だけ、瞬きを忘れた。
「……キス、ですか?」
「魚の方だ」
神谷奏は、まな板の上に銀色に光る魚を置いたまま、いつも通りの調子で言った。
スズキ目スズキ科――英名 Kiss。
淡泊で、しかし火を入れると驚くほど旨みが立つ白身魚だ。
「紛らわしいですね」
「そうだな」
奏は包丁を入れる。刃が入る音は静かで、迷いがない。
「今日のディナー、テーマは“誤解”だ」
「……また厄介そうな」
結はため息をつきながらも、ホイルを広げた。
ホテル・リトルフォレストでは、奏の言う“テーマ”はだいたい、料理だけで終わらない。
下処理を終えたキスの切り身に、軽く塩。
胡椒は使わない。代わりに、白ワインをほんの少し。
「香りは抑える」
「今日の主役は、湯気だ」
奏は言う。
ホイルの上に、玉ねぎの薄切り、ミニトマト、しめじ。
バターは角切りを一つだけ。
「多くしないんですね」
「キスは、重くすると逃げるからな」
「……言い方」
結は思わず笑った。
オーブンに入れ、火を入れる。
待ち時間のあいだ、厨房は珍しく静かだった。
「……奏さん」
「なんだ」
「“誤解”って、何のことですか」
奏は一拍置いてから答えた。
「人は、名前で何でも判断する」
「料理も、人も」
結は、それ以上聞かなかった。
最近、奏は時々、こうして核心だけを投げてくる。
焼き上がり。
ホイルを開いた瞬間、立ち上る湯気が厨房を満たした。
白身はふっくらと膨らみ、透明だった身は、雪のように白い。
バターとワイン、魚の水分が合わさった即席のソースが、底に溜まっている。
「……きれい」
「味も美味しい」
奏は最後に、レモンを一滴だけ落とした。
試食は、いつも通り二人。
フォークで身をほぐし、結が一口。
「……優しい」
「だろ」
「派手じゃないけど……」
「ちゃんと、記憶に残る味です」
奏は何も言わず、料理を口に運ぶ。
「……キス、ですもんね」
結が、ぽつりと言った。
「名前で、いろいろ誤解される」
「魚も、人も」
結の言葉に、奏の動きが一瞬だけ止まった。
その日の夜。
ディナーは好評だった。
「名前に驚いたけど、食べたらうまかった」
そんな感想が、何度も聞こえた。
営業後、厨房の片付けを終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「……奏さん」
結は、エプロンを外しながら言った。
「今日の料理も私好きです」
「そうか」
「名前も」
奏は、結を見た。
「……誤解されやすいが?」
「ええ」
「でも、ちゃんと向き合えば、分かりあえるはずです」
少しだけ、間が空く。
結は、心臓の音がうるさいことに気づいた。
「……料理人はな」
奏が静かに言う。
「味で語る」
「言葉は、後回しだ」
「はい」
「だが」
「それでも、伝えたいことがある時は……」
奏は、そこで言葉を切った。
そして、ほんの少しだけ、距離を詰める。
結は、逃げなかった。
触れるほど近くで、奏が言う。
「キスは、火を入れすぎるとくずれる」
「……こんな時でも料理の話しなんですね」
「すまん」
「……」
結の返事は、言葉にならなかった。
代わりに――
そっと、奏の方へ顔を向けた。
唇が触れる。
短く、静かで、確かにそこにあるキス。
料理で言えば、余熱のようなものだった。
離れたあと、二人は何も言わなかった。
ただ、同時に少しだけ、息を吐いた。
「……料理名、変えますか?」
結が冗談めかして言う。
「変えない」
奏は即答した。
「誤解されるままでいい」
「分かる人に、分かれば」
結は、小さく笑った。
「それ、料理人らしいです」
「お前もな」
翌日。
掲示板に貼られた新メニュー。
《Kiss(キス)のホイル焼き
※名前に驚いたら、まず一口》
ぬくがその前で首をかしげていた。
料理も、気持ちも。
大事なのは、温度と、タイミング。
そして――
伝える勇気、ひとつ。
ホイルの中で蒸された白身魚のように、
二人の距離も、少しずつ静かに、しかし確かに近づいていた。
第36話「余韻とギクシャクとブルーベリーパイと」につづく
「……キス、ですか?」
「魚の方だ」
神谷奏は、まな板の上に銀色に光る魚を置いたまま、いつも通りの調子で言った。
スズキ目スズキ科――英名 Kiss。
淡泊で、しかし火を入れると驚くほど旨みが立つ白身魚だ。
「紛らわしいですね」
「そうだな」
奏は包丁を入れる。刃が入る音は静かで、迷いがない。
「今日のディナー、テーマは“誤解”だ」
「……また厄介そうな」
結はため息をつきながらも、ホイルを広げた。
ホテル・リトルフォレストでは、奏の言う“テーマ”はだいたい、料理だけで終わらない。
下処理を終えたキスの切り身に、軽く塩。
胡椒は使わない。代わりに、白ワインをほんの少し。
「香りは抑える」
「今日の主役は、湯気だ」
奏は言う。
ホイルの上に、玉ねぎの薄切り、ミニトマト、しめじ。
バターは角切りを一つだけ。
「多くしないんですね」
「キスは、重くすると逃げるからな」
「……言い方」
結は思わず笑った。
オーブンに入れ、火を入れる。
待ち時間のあいだ、厨房は珍しく静かだった。
「……奏さん」
「なんだ」
「“誤解”って、何のことですか」
奏は一拍置いてから答えた。
「人は、名前で何でも判断する」
「料理も、人も」
結は、それ以上聞かなかった。
最近、奏は時々、こうして核心だけを投げてくる。
焼き上がり。
ホイルを開いた瞬間、立ち上る湯気が厨房を満たした。
白身はふっくらと膨らみ、透明だった身は、雪のように白い。
バターとワイン、魚の水分が合わさった即席のソースが、底に溜まっている。
「……きれい」
「味も美味しい」
奏は最後に、レモンを一滴だけ落とした。
試食は、いつも通り二人。
フォークで身をほぐし、結が一口。
「……優しい」
「だろ」
「派手じゃないけど……」
「ちゃんと、記憶に残る味です」
奏は何も言わず、料理を口に運ぶ。
「……キス、ですもんね」
結が、ぽつりと言った。
「名前で、いろいろ誤解される」
「魚も、人も」
結の言葉に、奏の動きが一瞬だけ止まった。
その日の夜。
ディナーは好評だった。
「名前に驚いたけど、食べたらうまかった」
そんな感想が、何度も聞こえた。
営業後、厨房の片付けを終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「……奏さん」
結は、エプロンを外しながら言った。
「今日の料理も私好きです」
「そうか」
「名前も」
奏は、結を見た。
「……誤解されやすいが?」
「ええ」
「でも、ちゃんと向き合えば、分かりあえるはずです」
少しだけ、間が空く。
結は、心臓の音がうるさいことに気づいた。
「……料理人はな」
奏が静かに言う。
「味で語る」
「言葉は、後回しだ」
「はい」
「だが」
「それでも、伝えたいことがある時は……」
奏は、そこで言葉を切った。
そして、ほんの少しだけ、距離を詰める。
結は、逃げなかった。
触れるほど近くで、奏が言う。
「キスは、火を入れすぎるとくずれる」
「……こんな時でも料理の話しなんですね」
「すまん」
「……」
結の返事は、言葉にならなかった。
代わりに――
そっと、奏の方へ顔を向けた。
唇が触れる。
短く、静かで、確かにそこにあるキス。
料理で言えば、余熱のようなものだった。
離れたあと、二人は何も言わなかった。
ただ、同時に少しだけ、息を吐いた。
「……料理名、変えますか?」
結が冗談めかして言う。
「変えない」
奏は即答した。
「誤解されるままでいい」
「分かる人に、分かれば」
結は、小さく笑った。
「それ、料理人らしいです」
「お前もな」
翌日。
掲示板に貼られた新メニュー。
《Kiss(キス)のホイル焼き
※名前に驚いたら、まず一口》
ぬくがその前で首をかしげていた。
料理も、気持ちも。
大事なのは、温度と、タイミング。
そして――
伝える勇気、ひとつ。
ホイルの中で蒸された白身魚のように、
二人の距離も、少しずつ静かに、しかし確かに近づいていた。
第36話「余韻とギクシャクとブルーベリーパイと」につづく
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