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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第34話 議員と堅物と毛沢東スパイス唐揚げと
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その料理名を最初に口にしたのは、支配人・木島五郎だった。
「今日の試作、毛沢東スパイス唐揚げだってさ」
厨房が、一瞬だけ静まり返った。
「……名前、強すぎません?」
佐山結が率直に言う。
「思想の話ではない」
「中国・湖南料理由来のスパイス唐揚げだ
毛沢東の大好物とも言われている」
神谷奏は淡々と包丁を動かしながら補足した。
「名前だけが独り歩きしてる料理だな」
「でも議員さん来る日ですよ?」
結の視線は、今日の予約表に向いていた。
本日の宿泊客――
《地元選出・県議会議員 早坂修一》
保守寄り、堅物、食にも思想にも口出しが多いことで知られる人物だった。
唐揚げ用の鶏もも肉は、大きめに切られていた。
「小さくすると、衣が主張する」
「今日は肉を食わせる」
奏は下味をつける。
・塩
・紹興酒
・生姜
・にんにく
「ここまでは普通ですね」
「問題は、後だ」
奏は棚から、見慣れない瓶をいくつも出す。
・花椒
・クミン
・八角
・シナモン
・クローブ
・フェンネル
・唐辛子
・陳皮
・ハチミツ
「……香りだけで殴られそう」
「毛沢東スパイスは」
「辛さじゃない」
「刺激だ」
奏は言った。
「一口ごとに、味が違うように錯覚する」
「だから、飽きない」
衣は薄力粉と片栗粉、半々。
「粉は、まとわせすぎるな」
「剥がれる程度でいい」
油の温度は170度。
鶏肉を入れた瞬間、
低い音で、油が鳴いた。
「音、静かですね」
「肉が落ち着いてる」
揚がった唐揚げを、一度休ませる。
二度揚げはしない。
「今日は、重くなる」
仕上げに、
油を切った唐揚げを中華鍋へ。
そこへ――
大量のスパイス。
香りが、一気に爆発した。
「……これは」
結が、思わず一歩下がる。
「思想じゃない」
「香りの暴力だ」
その頃、ロビー。
「このホテルは、妙な匂いがするな」
県議・早坂修一は、腕を組んで言った。
隣でフロントの三条京子が、柔らかく微笑む。
「本日は、少し個性的な料理をご用意しておりまして」
(名前は伏せた方がいいわね)
(絶対荒れる)
心の声は、口には出なかった。
江藤快が、横で小さく頷く。
……この人、警戒心が高いですね
「厄介ね」
夕食。
議員の前に置かれた皿には、
黄金色の唐揚げの上には真っ赤なスパイスがどっさりと乗っている
香りが、先に殴る。
「……これは、何だ」
「毛沢東スパイス唐揚げです」
結が言ってしまった。
一瞬の沈黙。
「……名前の説明を」
「料理名です」
「思想は、入っていません」
早坂は、じっと唐揚げを見つめる。
「……食べ物に、名前は重要だ」
「ですが、味は、名前より正直です」
一口。
議員の眉が、わずかに動いた。
二口目。
箸が止まらない。
「……辛いが、違う」
「単なる刺激じゃない」
三口目。
「香りが……次に来る」
「混乱してますか」
結の問いに、議員は頷いた。
「だが、不快ではない」
皿は、静かに空になった。
「……料理とは」
「思想より、体に先に届くものだな」
誰も、反論しなかった。
食後。
「料理名で、拒否する人も多い」
奏が厨房から出てきて言う。
「だが」
「食べれば分かる」
議員は、しばらく黙ってから言った。
「私は、名前で判断しすぎていたかもしれん」
それは、料理への感想ではなかった。
その夜、厨房。
「……よかったですね」
結が言う。
「名前で揉めなくて」
「揉めた」
「え?」
「心の中で」
奏は、鍋を洗いながら続ける。
「料理は」
「その人が抱えているものを、炙り出す」
「スパイスみたいですね」
「そうだ」
奏は少しだけ笑った。
後日。
掲示板に、貼り紙が増えた。
《本日の試作
毛沢東スパイス唐揚げ
※名前が気になる方は、まず一口》
ぬくが、その前で尻尾を振っていた。
思想は、食べられない。
だが、料理は――
人を、少しだけ柔らかくする。
第35話 「キスとキスとホイル焼きと」につづく
「今日の試作、毛沢東スパイス唐揚げだってさ」
厨房が、一瞬だけ静まり返った。
「……名前、強すぎません?」
佐山結が率直に言う。
「思想の話ではない」
「中国・湖南料理由来のスパイス唐揚げだ
毛沢東の大好物とも言われている」
神谷奏は淡々と包丁を動かしながら補足した。
「名前だけが独り歩きしてる料理だな」
「でも議員さん来る日ですよ?」
結の視線は、今日の予約表に向いていた。
本日の宿泊客――
《地元選出・県議会議員 早坂修一》
保守寄り、堅物、食にも思想にも口出しが多いことで知られる人物だった。
唐揚げ用の鶏もも肉は、大きめに切られていた。
「小さくすると、衣が主張する」
「今日は肉を食わせる」
奏は下味をつける。
・塩
・紹興酒
・生姜
・にんにく
「ここまでは普通ですね」
「問題は、後だ」
奏は棚から、見慣れない瓶をいくつも出す。
・花椒
・クミン
・八角
・シナモン
・クローブ
・フェンネル
・唐辛子
・陳皮
・ハチミツ
「……香りだけで殴られそう」
「毛沢東スパイスは」
「辛さじゃない」
「刺激だ」
奏は言った。
「一口ごとに、味が違うように錯覚する」
「だから、飽きない」
衣は薄力粉と片栗粉、半々。
「粉は、まとわせすぎるな」
「剥がれる程度でいい」
油の温度は170度。
鶏肉を入れた瞬間、
低い音で、油が鳴いた。
「音、静かですね」
「肉が落ち着いてる」
揚がった唐揚げを、一度休ませる。
二度揚げはしない。
「今日は、重くなる」
仕上げに、
油を切った唐揚げを中華鍋へ。
そこへ――
大量のスパイス。
香りが、一気に爆発した。
「……これは」
結が、思わず一歩下がる。
「思想じゃない」
「香りの暴力だ」
その頃、ロビー。
「このホテルは、妙な匂いがするな」
県議・早坂修一は、腕を組んで言った。
隣でフロントの三条京子が、柔らかく微笑む。
「本日は、少し個性的な料理をご用意しておりまして」
(名前は伏せた方がいいわね)
(絶対荒れる)
心の声は、口には出なかった。
江藤快が、横で小さく頷く。
……この人、警戒心が高いですね
「厄介ね」
夕食。
議員の前に置かれた皿には、
黄金色の唐揚げの上には真っ赤なスパイスがどっさりと乗っている
香りが、先に殴る。
「……これは、何だ」
「毛沢東スパイス唐揚げです」
結が言ってしまった。
一瞬の沈黙。
「……名前の説明を」
「料理名です」
「思想は、入っていません」
早坂は、じっと唐揚げを見つめる。
「……食べ物に、名前は重要だ」
「ですが、味は、名前より正直です」
一口。
議員の眉が、わずかに動いた。
二口目。
箸が止まらない。
「……辛いが、違う」
「単なる刺激じゃない」
三口目。
「香りが……次に来る」
「混乱してますか」
結の問いに、議員は頷いた。
「だが、不快ではない」
皿は、静かに空になった。
「……料理とは」
「思想より、体に先に届くものだな」
誰も、反論しなかった。
食後。
「料理名で、拒否する人も多い」
奏が厨房から出てきて言う。
「だが」
「食べれば分かる」
議員は、しばらく黙ってから言った。
「私は、名前で判断しすぎていたかもしれん」
それは、料理への感想ではなかった。
その夜、厨房。
「……よかったですね」
結が言う。
「名前で揉めなくて」
「揉めた」
「え?」
「心の中で」
奏は、鍋を洗いながら続ける。
「料理は」
「その人が抱えているものを、炙り出す」
「スパイスみたいですね」
「そうだ」
奏は少しだけ笑った。
後日。
掲示板に、貼り紙が増えた。
《本日の試作
毛沢東スパイス唐揚げ
※名前が気になる方は、まず一口》
ぬくが、その前で尻尾を振っていた。
思想は、食べられない。
だが、料理は――
人を、少しだけ柔らかくする。
第35話 「キスとキスとホイル焼きと」につづく
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