ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

文字の大きさ
47 / 152
第1章 宿り木ホテルと季節の人々

第45話 高官と妻の笑顔とスブラキと

しおりを挟む
 その朝、ソラス・フォレストは異様だった。

 まだチェックインの時間でもないのに、ロビーには黒服の男たちが立ち並び、耳元のインカムが低く唸っている。
 窓際、廊下、非常口。
 どこを見ても、SP、SP、SP。

「……ねえ、これ絶対うちのホテルで起きていい光景じゃないわよね?」
 三条京子が、完璧な笑顔のまま心の声を盛大に漏らす。

「(なにこの重苦しさ!? 映画の撮影!? それとも国家転覆!?)」
「京子さん、声と心が完全に一致してます」
 隣で江藤快が即座にフォロー――しきれていない。

 支配人・木島五郎はというと、なぜかやけに上機嫌だった。
「いやあ、すごいなあ! まさか“国賓級”のお客様が来るとは!」

「聞いてない!! 私は聞いてない!!」

「言ったら君、京子は絶対寝られなくなるだろ?」

「なるわよ! でも知らないで迎える方が怖いわよ!!」

 そのとき、静かに一台の黒塗りの車が正面玄関に滑り込んだ。

 SPたちの空気が一段、張り詰める。

 車のドアが開き、降りてきたのは――
 白髪混じり、背筋の伸びた壮年の男。

「……あの方が」
 京子が息を呑む。

「ギリシャ共和国、文化・食糧振興庁の高官、ニコラオス・アレクシウ氏です」

「ギ、ギリシャ……」
 結は、思わず厨房の奥を見た。

 神谷奏は、いつもと同じように仕込みをしている。
 まるで、この異常事態が自分と無関係であるかのように。

 ホテルは完全貸し切り。
 一般客は予約不可、周辺道路にも警備が敷かれた。

 ぬくは、SPに囲まれても物怖じせず、しっぽを振っている。

「犬は安全確認済みです」
「え、犬にも確認あるの!?」
「あります」
「……世知辛いわね……」

 結は、厨房で落ち着かない気持ちのまま仕込みをしていた。

「……奏さん」
 思わず声をかける。

「なんだ」

「その……ギリシャの高官って……」
「あの方は知ってる」

 結は包丁を落としそうになった。

「え?」

「俺に会いに来た」

「……え?」

 あまりに淡々と言うものだから、理解が追いつかない。

「な、なんで……?」

 奏は、火を入れる準備をしながら答えた。

「十年以上前」
「ギリシャの離島で、世話になった」

 結は、息を呑む。

「料理でですか?」

「ああ」

 それ以上は語らない。
 だが、その沈黙の重さが、ただ事ではないと告げていた。

 夕刻。
 ダイニングに通されたニコラオス高官は、穏やかな笑みを浮かべていた。
 そこに奏が挨拶に向かった。
「…噂では聞いてましたが…やはり、あなたでしたか」

 流暢な日本語だった。

 奏は、軽く頭を下げる。

「ご無沙汰しております」

 結は、二人の間に流れる空気に、言葉を失った。

 SPたちは距離を保ちつつ、視線を離さない。

「本日は……」
「お願いがあって、参りました」

「……料理ですね」

「はい」

 ニコラオスは、深く息を吸う。

「スブラギを、作っていただきたい」

 その言葉に、結の胸が高鳴った。

(スブラギ……ギリシャの串焼き……!)

「ただし」
 ニコラオスは続けた。
「国の式典でも、晩餐会でもありません」

「……?」

「“ある個人的な理由”です」

 奏は一瞬目を見開き少しだけ目を伏せた。

「…そうでしたか…わかりました」

 厨房。

 奏は、ラム肉を丁寧に切り分けていた。

「スブラギは」
 結に言う。
「シンプルな料理だ」

「はい」

「だから、誤魔化しがきかない」

 肉は大きすぎず、小さすぎず。
 繊維を断ち、脂を残す。

 オリーブオイル、レモン、オレガノ、にんにく。
 香りが立ち上る。

「串は?」
「水に浸してくれ」

 結は、言われるまま動きながら、思い切って聞いた。

「……その」
「お願いって何だったんですか?」

 奏は、一瞬、手を止めた。

「……昔」
「俺が、料理をやめかけたときがある」

 結の胸が、きゅっと縮む。

「そのとき」
「彼の妻が、俺にスブラギを焼けと言った」

「……」

「何百本も火の前で焼いた」

 奏は、串に肉を刺しながら続ける。

「“火を見ろ”って」
「“肉じゃない、人でもない。火を見ろ”って」

 結は、静かに聞いていた。

「焼き上がったスブラギを食べて」
「彼女は、笑った。
 素敵な笑顔だった」

 奏の声が、わずかに揺れた。

「……それで」
「俺は、もう一度、包丁を持った」

 結は、喉が熱くなる。

「……なぜスブラギを?」

「その奥様が亡くなったようだ」

 ニコラオスが、今日ここに来た理由。
 それが、ようやく結にも見えた。

 炭火に火が入る。

 串に刺さった肉が、じゅっと音を立てる。

 脂が落ち、煙が立ち上る。

 奏は、焦らない。
 ひっくり返すタイミング、塩を打つ瞬間。

「……火を、見ろ」

 結は、自然と同じ言葉を心の中でなぞっていた。

 焼き上がったスブラギは、こんがりと香ばしく、しかし乾いていない。

 レモンを絞ると、香りが弾けた。

 ダイニングへ結と奏が皿を持って行く

 ニコラオスは、一口食べ――
 しばらく、動かなかった。

 SPたちがざわめく。

 だが、彼はやがて、深く目を閉じた。

「…あのときと…同じです」

 声が、震えている。

「妻が、笑ったときのままの味だ」

 奏は、何も言わず、ただ頭を下げた。

「ありがとう」
 ニコラオスは、まっすぐに言った。
「あなたは」
「私たちの国の“火”を、覚えていてくれた」

 それは、称賛でも命令でもない。
 感謝だった。

 ソラス・フォレストは、
 今夜も、静かに呼吸していた。

第46話「外交とプレッシャーとお茶漬け膳と」につづく
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

処理中です...