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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第45話 高官と妻の笑顔とスブラキと
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その朝、ソラス・フォレストは異様だった。
まだチェックインの時間でもないのに、ロビーには黒服の男たちが立ち並び、耳元のインカムが低く唸っている。
窓際、廊下、非常口。
どこを見ても、SP、SP、SP。
「……ねえ、これ絶対うちのホテルで起きていい光景じゃないわよね?」
三条京子が、完璧な笑顔のまま心の声を盛大に漏らす。
「(なにこの重苦しさ!? 映画の撮影!? それとも国家転覆!?)」
「京子さん、声と心が完全に一致してます」
隣で江藤快が即座にフォロー――しきれていない。
支配人・木島五郎はというと、なぜかやけに上機嫌だった。
「いやあ、すごいなあ! まさか“国賓級”のお客様が来るとは!」
「聞いてない!! 私は聞いてない!!」
「言ったら君、京子は絶対寝られなくなるだろ?」
「なるわよ! でも知らないで迎える方が怖いわよ!!」
そのとき、静かに一台の黒塗りの車が正面玄関に滑り込んだ。
SPたちの空気が一段、張り詰める。
車のドアが開き、降りてきたのは――
白髪混じり、背筋の伸びた壮年の男。
「……あの方が」
京子が息を呑む。
「ギリシャ共和国、文化・食糧振興庁の高官、ニコラオス・アレクシウ氏です」
「ギ、ギリシャ……」
結は、思わず厨房の奥を見た。
神谷奏は、いつもと同じように仕込みをしている。
まるで、この異常事態が自分と無関係であるかのように。
ホテルは完全貸し切り。
一般客は予約不可、周辺道路にも警備が敷かれた。
ぬくは、SPに囲まれても物怖じせず、しっぽを振っている。
「犬は安全確認済みです」
「え、犬にも確認あるの!?」
「あります」
「……世知辛いわね……」
結は、厨房で落ち着かない気持ちのまま仕込みをしていた。
「……奏さん」
思わず声をかける。
「なんだ」
「その……ギリシャの高官って……」
「あの方は知ってる」
結は包丁を落としそうになった。
「え?」
「俺に会いに来た」
「……え?」
あまりに淡々と言うものだから、理解が追いつかない。
「な、なんで……?」
奏は、火を入れる準備をしながら答えた。
「十年以上前」
「ギリシャの離島で、世話になった」
結は、息を呑む。
「料理でですか?」
「ああ」
それ以上は語らない。
だが、その沈黙の重さが、ただ事ではないと告げていた。
夕刻。
ダイニングに通されたニコラオス高官は、穏やかな笑みを浮かべていた。
そこに奏が挨拶に向かった。
「…噂では聞いてましたが…やはり、あなたでしたか」
流暢な日本語だった。
奏は、軽く頭を下げる。
「ご無沙汰しております」
結は、二人の間に流れる空気に、言葉を失った。
SPたちは距離を保ちつつ、視線を離さない。
「本日は……」
「お願いがあって、参りました」
「……料理ですね」
「はい」
ニコラオスは、深く息を吸う。
「スブラギを、作っていただきたい」
その言葉に、結の胸が高鳴った。
(スブラギ……ギリシャの串焼き……!)
「ただし」
ニコラオスは続けた。
「国の式典でも、晩餐会でもありません」
「……?」
「“ある個人的な理由”です」
奏は一瞬目を見開き少しだけ目を伏せた。
「…そうでしたか…わかりました」
厨房。
奏は、ラム肉を丁寧に切り分けていた。
「スブラギは」
結に言う。
「シンプルな料理だ」
「はい」
「だから、誤魔化しがきかない」
肉は大きすぎず、小さすぎず。
繊維を断ち、脂を残す。
オリーブオイル、レモン、オレガノ、にんにく。
香りが立ち上る。
「串は?」
「水に浸してくれ」
結は、言われるまま動きながら、思い切って聞いた。
「……その」
「お願いって何だったんですか?」
奏は、一瞬、手を止めた。
「……昔」
「俺が、料理をやめかけたときがある」
結の胸が、きゅっと縮む。
「そのとき」
「彼の妻が、俺にスブラギを焼けと言った」
「……」
「何百本も火の前で焼いた」
奏は、串に肉を刺しながら続ける。
「“火を見ろ”って」
「“肉じゃない、人でもない。火を見ろ”って」
結は、静かに聞いていた。
「焼き上がったスブラギを食べて」
「彼女は、笑った。
素敵な笑顔だった」
奏の声が、わずかに揺れた。
「……それで」
「俺は、もう一度、包丁を持った」
結は、喉が熱くなる。
「……なぜスブラギを?」
「その奥様が亡くなったようだ」
ニコラオスが、今日ここに来た理由。
それが、ようやく結にも見えた。
炭火に火が入る。
串に刺さった肉が、じゅっと音を立てる。
脂が落ち、煙が立ち上る。
奏は、焦らない。
ひっくり返すタイミング、塩を打つ瞬間。
「……火を、見ろ」
結は、自然と同じ言葉を心の中でなぞっていた。
焼き上がったスブラギは、こんがりと香ばしく、しかし乾いていない。
レモンを絞ると、香りが弾けた。
ダイニングへ結と奏が皿を持って行く
ニコラオスは、一口食べ――
しばらく、動かなかった。
SPたちがざわめく。
だが、彼はやがて、深く目を閉じた。
「…あのときと…同じです」
声が、震えている。
「妻が、笑ったときのままの味だ」
奏は、何も言わず、ただ頭を下げた。
「ありがとう」
ニコラオスは、まっすぐに言った。
「あなたは」
「私たちの国の“火”を、覚えていてくれた」
それは、称賛でも命令でもない。
感謝だった。
ソラス・フォレストは、
今夜も、静かに呼吸していた。
第46話「外交とプレッシャーとお茶漬け膳と」につづく
まだチェックインの時間でもないのに、ロビーには黒服の男たちが立ち並び、耳元のインカムが低く唸っている。
窓際、廊下、非常口。
どこを見ても、SP、SP、SP。
「……ねえ、これ絶対うちのホテルで起きていい光景じゃないわよね?」
三条京子が、完璧な笑顔のまま心の声を盛大に漏らす。
「(なにこの重苦しさ!? 映画の撮影!? それとも国家転覆!?)」
「京子さん、声と心が完全に一致してます」
隣で江藤快が即座にフォロー――しきれていない。
支配人・木島五郎はというと、なぜかやけに上機嫌だった。
「いやあ、すごいなあ! まさか“国賓級”のお客様が来るとは!」
「聞いてない!! 私は聞いてない!!」
「言ったら君、京子は絶対寝られなくなるだろ?」
「なるわよ! でも知らないで迎える方が怖いわよ!!」
そのとき、静かに一台の黒塗りの車が正面玄関に滑り込んだ。
SPたちの空気が一段、張り詰める。
車のドアが開き、降りてきたのは――
白髪混じり、背筋の伸びた壮年の男。
「……あの方が」
京子が息を呑む。
「ギリシャ共和国、文化・食糧振興庁の高官、ニコラオス・アレクシウ氏です」
「ギ、ギリシャ……」
結は、思わず厨房の奥を見た。
神谷奏は、いつもと同じように仕込みをしている。
まるで、この異常事態が自分と無関係であるかのように。
ホテルは完全貸し切り。
一般客は予約不可、周辺道路にも警備が敷かれた。
ぬくは、SPに囲まれても物怖じせず、しっぽを振っている。
「犬は安全確認済みです」
「え、犬にも確認あるの!?」
「あります」
「……世知辛いわね……」
結は、厨房で落ち着かない気持ちのまま仕込みをしていた。
「……奏さん」
思わず声をかける。
「なんだ」
「その……ギリシャの高官って……」
「あの方は知ってる」
結は包丁を落としそうになった。
「え?」
「俺に会いに来た」
「……え?」
あまりに淡々と言うものだから、理解が追いつかない。
「な、なんで……?」
奏は、火を入れる準備をしながら答えた。
「十年以上前」
「ギリシャの離島で、世話になった」
結は、息を呑む。
「料理でですか?」
「ああ」
それ以上は語らない。
だが、その沈黙の重さが、ただ事ではないと告げていた。
夕刻。
ダイニングに通されたニコラオス高官は、穏やかな笑みを浮かべていた。
そこに奏が挨拶に向かった。
「…噂では聞いてましたが…やはり、あなたでしたか」
流暢な日本語だった。
奏は、軽く頭を下げる。
「ご無沙汰しております」
結は、二人の間に流れる空気に、言葉を失った。
SPたちは距離を保ちつつ、視線を離さない。
「本日は……」
「お願いがあって、参りました」
「……料理ですね」
「はい」
ニコラオスは、深く息を吸う。
「スブラギを、作っていただきたい」
その言葉に、結の胸が高鳴った。
(スブラギ……ギリシャの串焼き……!)
「ただし」
ニコラオスは続けた。
「国の式典でも、晩餐会でもありません」
「……?」
「“ある個人的な理由”です」
奏は一瞬目を見開き少しだけ目を伏せた。
「…そうでしたか…わかりました」
厨房。
奏は、ラム肉を丁寧に切り分けていた。
「スブラギは」
結に言う。
「シンプルな料理だ」
「はい」
「だから、誤魔化しがきかない」
肉は大きすぎず、小さすぎず。
繊維を断ち、脂を残す。
オリーブオイル、レモン、オレガノ、にんにく。
香りが立ち上る。
「串は?」
「水に浸してくれ」
結は、言われるまま動きながら、思い切って聞いた。
「……その」
「お願いって何だったんですか?」
奏は、一瞬、手を止めた。
「……昔」
「俺が、料理をやめかけたときがある」
結の胸が、きゅっと縮む。
「そのとき」
「彼の妻が、俺にスブラギを焼けと言った」
「……」
「何百本も火の前で焼いた」
奏は、串に肉を刺しながら続ける。
「“火を見ろ”って」
「“肉じゃない、人でもない。火を見ろ”って」
結は、静かに聞いていた。
「焼き上がったスブラギを食べて」
「彼女は、笑った。
素敵な笑顔だった」
奏の声が、わずかに揺れた。
「……それで」
「俺は、もう一度、包丁を持った」
結は、喉が熱くなる。
「……なぜスブラギを?」
「その奥様が亡くなったようだ」
ニコラオスが、今日ここに来た理由。
それが、ようやく結にも見えた。
炭火に火が入る。
串に刺さった肉が、じゅっと音を立てる。
脂が落ち、煙が立ち上る。
奏は、焦らない。
ひっくり返すタイミング、塩を打つ瞬間。
「……火を、見ろ」
結は、自然と同じ言葉を心の中でなぞっていた。
焼き上がったスブラギは、こんがりと香ばしく、しかし乾いていない。
レモンを絞ると、香りが弾けた。
ダイニングへ結と奏が皿を持って行く
ニコラオスは、一口食べ――
しばらく、動かなかった。
SPたちがざわめく。
だが、彼はやがて、深く目を閉じた。
「…あのときと…同じです」
声が、震えている。
「妻が、笑ったときのままの味だ」
奏は、何も言わず、ただ頭を下げた。
「ありがとう」
ニコラオスは、まっすぐに言った。
「あなたは」
「私たちの国の“火”を、覚えていてくれた」
それは、称賛でも命令でもない。
感謝だった。
ソラス・フォレストは、
今夜も、静かに呼吸していた。
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