ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第1章 宿り木ホテルと季節の人々

第44話 去る理由と残る理由とラザニアと

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 夜の厨房は、昼とはまるで別の顔をしている。
 火の音も、人の気配も落ち着いて、ただ換気扇の低い唸りだけが空間を満たしていた。

 結は、オーブンの前に立つ奏の背中を見ていた。

 銀色のバットに収められたラザニア。
 ベシャメル、ミートソース、パスタ、チーズ。
 層を重ね、また重ね、最後に焼き上げる料理。

「……今日は、ラザニアなんですね」

「ああ」

 奏は短く答え、オーブンの温度を微調整した。

「明日から、少し忙しくなりそうだから」
「仕込みを兼ねてる」

(……また、“どこかへ行くかもしれない”前提の言い方)

 結は、その言葉を飲み込んだ。

 引き抜きの話が出てから、数日。
 スタッフの騒ぎは一段落したが、結の中では何も終わっていなかった。

 奏が去るかもしれない。
 それだけで、厨房の空気が少し遠く感じる。

「……結」

 奏が、不意に声をかけた。

「今日、少し時間あるか」

「……はい」

 それだけで、胸がざわつく。

 ラザニアが焼き上がるまで、二人はほとんど言葉を交わさなかった。

 奏は無駄のない動きでサラダを仕上げ、結はテーブルを整える。
 ぬくは、厨房の隅で丸くなっていた。

 オーブンのタイマーが鳴る。

 扉を開けた瞬間、チーズとトマト、肉の香りが一気に広がった。

「……いい匂い」

「ラザニアは」
 奏が言った。
「層のバランスが大事だ」

「……人みたいですね」

 奏は、ほんの少し笑った。

 切り分けられたラザニアは、断面が美しかった。
 層が崩れず、きちんと立っている。

「食べてくれ」

 結は、一口食べて――息を止めた。

「……やさしい」

 濃厚なのに、重くない。
 一層一層が主張しすぎず、全部で一つの味になっている。

「……これ」
「奏さんの料理の中でも、特別な感じがします」

「そうか」

「……思い出の料理、ですか?」

 奏は、フォークを置いた。

「……ああ」

 結は、思わず姿勢を正す。

「去る理由から話す」

 奏は、淡々と語り始めた。

「俺は一つの場所に、長く居られない」

 結の指先が、少し震えた。

「昔から料理を覚えるたびに、次が見えたら
 ここで学ぶことは終わったって思ってしまうんだ」

「……それは」
「逃げ、ですか?」

 自分でも驚くほど、結の声はまっすぐだった。

 奏は、否定しなかった。

「……そう思われても仕方ない」
「実際、逃げたこともある」

 結は、胸が苦しくなるのを感じた。

「師匠の一人が」
 奏は続けた。
「こう言った」
「“料理人は、場所に甘えるな”」

「……」

「だから」
「出来るようになる前に、出た事もあり」
「出来るようになった後も、出たりした」

「……怖かったんですね」

 奏は、少しだけ目を細めた。

「……ああ」
「ここに居続けて何も変わらなくなるのが怖かった」

 結は、ラザニアの層を見つめた。

(変わらないことが、悪いわけじゃないのに)

「……じゃあ」
 結は、意を決して言った。
「残る理由は?」

 奏は、すぐには答えなかった。

 代わりに、ラザニアをもう一口食べる。

「……この料理な」

「はい」

「ラザニアは」
「一層ずつ、別の工程だ面倒だし、時間もかかる」

「……はい」

「でも」
「どれか一つ欠けると、成立しない」

 結は、はっとした。

「……ここでは」
 奏は静かに言った。
「俺だけじゃ、成立しない」

 結の心臓が、強く打つ。

「結がいて」
「京子さんや快がいて」
「舞さんや静枝さんや支配人がいる」

「……ぬくも」

「……ああ、ぬくもいるな」

 奏は、珍しくはっきり頷いた。

「ここでは」
「料理が俺一人のものじゃないスタッフみんなで料理を作っている」

 結の目が、熱くなる。

「……それが」
「残る理由、ですか?」

「一つはな」

「……他にも、ありますか」

 奏は、少し困ったように視線を逸らした。

「……ある」

 結は、息を呑む。

「結」

「……はい」

「お前が俺の料理に、注文をつけたときの事覚えているか?」

「……!」

「あれは」
「俺にとって、初めてだった」

 結の胸が、ぎゅっと締まる。

「評価じゃない」
「期待でもない」
「……一緒に作るって目だった」

「……そんなつもりじゃ……」

「だからだ」

 奏は、結を見る。

「ここでは」
「俺は、作り続けられるし」
「変わり続けられる可能性もある」

 それが、去る理由の反対だった。

 ラザニアは、いつの間にか半分なくなっていた。

 層は崩れている。
 それでも、味は変わらない。

「……奏さん」

「なんだ」

「もし」
「去るって決めたら」

 結は、喉が詰まるのを感じながら言った。

「……私は、止めます」

 奏は、驚いたように目を瞬かせた。

「料理で」
「言葉で」
「……全部使って」

 少し間があって、奏は小さく笑った。

「…全部って…厄介だな」

「今さらですね」

「……だな」

 奏は、フォークを置いた。

「だから簡単には、去れない。
 まだ、答えは出せないけど全部見極めてから答えを出す。」

 それが、答えだった。

 その夜、結は一人、厨房に残った。

 奏が作ったラザニアのレシピを、ノートに写しながら。

(層は)
(一つずつ、重ねればいい)

 ぬくが、足元に寄り添う。

「…ありがとう…大丈夫だよ」

 結は、小さく笑った。

「きっと」
「大丈夫」

第45話「高官と妻の笑顔とスブラキと」につづく
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