ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第1章 宿り木ホテルと季節の人々

第46話 外交とプレッシャーとお茶漬け膳と

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 その朝、ソラス・フォレストは、昨夜の騒ぎが嘘のように静まり返っていた。

 廊下にSPはいない。
 インカムの低音も、靴音も消えている。

 ただ、窓から差し込む冬の光が、ロビーの床に淡く広がっていた。

「……夢じゃないわよね?」

 三条京子は、カウンターに肘をつき、ぼんやりと言った。

「夢なら、あんなに胃が痛くならないと思います」
 江藤快が冷静に返す。

「私、昨夜“国家レベル”って言葉を五回は聞いたのよ?」
「そのたびに寿命が縮んだ気がするんだけど」

 支配人・木島五郎は、なぜか朝から妙に姿勢がいい。

「いやあ、いい経験だったじゃないか」
「なかなか泊まれないよ、国賓級を迎えるホテルなんて」

「迎える心の準備をさせなさいよ!!」

「準備しても無理だと思ったから省いた」

「この人ほんと……」

 そんなやり取りをしているところへ、
 フロントの電話が鳴った。

 一度。
 二度。

 京子が受話器を取る。

「はい、ソラス・フォレストでございます」

 数秒後――
 彼女の表情が、完全に固まった。

「……は?」

 支配人と快が、同時に顔を向ける。

「……少々、お待ちください」

 京子は受話器を押さえ、声をひそめた。

「……ギリシャ大使館です」

 空気が、凍った。

「……え?」

「正式な……」
 京子は、喉を鳴らす。
「“外交”のフォローオファーだそうです」

「……あの一皿で?」

 結は、思わず呟いた。

「いや一皿じゃない」
 京子が言う。

「“神谷奏”という料理人にだそうです」

 厨房の奥で、奏は黙々と朝の仕込みをしていた。

 いつもと同じ。
 野菜を切り、出汁を取る。

 だが、結は気づいていた。

(……音が、少しだけ硬い)

 朝食はまかないは奏の提案で「お茶漬け膳」だった。

「まかないできた」

「……この状況で?」

 支配人が目を丸くする。

「だからだ」
 奏は言った。

「胃に負担をかけると、判断を誤る」

「料理人の理屈が怖いんだよな……」

 膳は、驚くほど質素だった。

 ・炊き立ての白米
 ・昆布と鰹の澄んだ出汁
 ・焼き鮭
 ・香の物
 ・刻み海苔と三つ葉

 それだけ。

 だが、湯気の立ち方が、静かに心を落ち着かせる。

「……おいしい」

 結は、小さく息を吐いた。

 余計な味がしない。
 ただ、温度と塩気が、体に染みる。

「……プレッシャーが強いときほど」
 奏は、淡々と言った。

「こういう料理がいい」

 京子は、箸を止めて奏を見る。
「……ねえ怖くないの?」

 その問いは、珍しく、心の声ではなかった。

 奏は、少し考えてから答える。

「……怖い」

 結の胸が、きゅっとなる。

「国家とか外交とかよく分からんし正直、俺の手に余る」

「……なら」

「でも」
 奏は、茶を一口含む。
「料理事態は変わらない」

「……」

「スブラギを焼く火も今日の出汁も皆同じだ」

 結は、その言葉に、昨夜の炭火を思い出した。

 その後、正式な書簡が届いた。

 ギリシャ共和国文化・食糧振興庁。
 格式ばった文面。

「……要約すると?」
 支配人が聞く。

「神谷奏氏に」
 快が冷静に読む。
「“日希(日本・ギリシャ)食文化交流事業”の料理監修を依頼」
「式典、若手育成、レシピの共同開発など」

「……重いわね」

「国一つ背負えって言われてる感じですね」

 結は、書簡を見つめながら、胸がざわついた。

(奏さんが……遠くへ行く理由が、また一つ……)

「……奏さん」

 思わず、声が出た。

「なんだ」

「……受けるんですか?」

 奏は、すぐに答えなかった。

 代わりに急須に湯を注ぐ。

「……今すぐは、答えない」

「え?」

「こういう話は」
 奏は、湯飲みを置く。
「焦って決めると、後悔する」

 結は、ほっとしたような、怖いような気持ちになる。

「それに」
 奏は、ちらりと周囲を見る。

「俺一人で決める話じゃない」

「……?」

「このホテルが」
「ソラス・フォレストが、どう関わるかも含めてだ」

 支配人が、目を丸くする。

「え、巻き込むの?」

「当然だろ」

「俺が今、立ってる場所だから」

 京子が、ぽろっと本音を漏らす。

「……あ、あれ?」

「なんか……逃げ道、塞がれてない?」

「京子さん、それ声に出てます」

 朝食の片付けが終わり、
 結は、厨房で奏に声をかけた。

「……私」
「足引っ張ってますか?」

 奏は、すぐに否定した。

「大丈夫だ」

「でも……」

「結」
 奏は、真っ直ぐ言った。

「プレッシャーは、共有するものだ」

 結の目が、潤む。

「……逃げたく、なりませんか」

「なる」

「……」

「でも」
 奏は、出汁の残りを鍋に戻す。

「逃げ道がない場所で作る料理も、悪くない」

 それは、初めて聞く言葉だった。

 “去る理由”ばかり語ってきた奏が、

 “踏みとどまる覚悟”を滲ませた瞬間。

 ロビーの窓から、朝日が差し込む。

 ソラス・フォレストは、まだ小さなホテルだ。

 だが今、
 湯気の立つ一膳の向こうに、世界が見えている。

 結は、ぬくの頭を撫でながら、思った。

 プレッシャーは、確かに重い。
 けれど、それを分け合える場所が、ここにはある。

 お茶漬けの湯気は、
 まだ消えずに、静かに漂っていた。

第47話「新入社員と生意気とチャーハンと」につづく
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