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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第53話 艶やか女と艶やかな夜とカクテルと
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その夜、ソラス・フォレストのラウンジは、いつもより灯りを落としていた。
理由は単純だ。
田町舞が、カウンターに立っているから。
「今日は男性客多くないですか?」
結が小声で京子に聞くと、京子は肩をすくめた。
「今日はバーカウンターオープンの日だからね
みんな舞目当てなのよ」
ラウンジの照明は、間接光だけ。
グラスに反射する琥珀色やルビー色が、壁に淡く揺れる。
田町舞は、黒に近い深緑のワンピースを着ていた。
露出は少ない。
だが、首筋と手首が、やけに艶めいて見える。
「いらっしゃいませ」
低く、柔らかい声。
その一言で、空気が変わる。
舞は、元々はホテルの設備担当だ。
だが、夜だけはバーテンダーになる。
理由を聞いても、彼女は笑ってこう言うだけだった。
「夜に向いてるのよ、私」
グラスを磨く指先は、無駄がなく、しなやかだ。
氷を落とす音すら、計算されているかのよう。
最初の客は、一人旅の女性だった。
「……何か、落ち着くものを」
「甘さは?」
「控えめで」
舞は、迷わずボトルを選ぶ。
「アメリカーノにしましょう」
カンパリの赤。
ベルモットの深み。
最後に、ソーダで軽く伸ばす。
差し出すとき、舞は一瞬だけ目を合わせた。
「今夜は、強がらなくていい夜ですから」
客は、何も言えずに微笑んだ。
結は、少し離れたところから見ていた。
(……夜の舞さんはやっぱり昼とは全然違う)
昼間の舞は、きっちりしていて、無駄話をしない。
でも今は――
人の心を、ほどく役をしている。
「見惚れてる?」
背後から、京子の声。
「……はい」
「……わかる」
短く、それだけ。
次の客は、常連の男性。
仕事帰りらしく、肩に疲れを溜めている。
「いつもの?」
「……今日は、違うのを」
舞は、少しだけ首をかしげた。
「……じゃあ、ネグローニ」
ジン、カンパリ、ベルモット。
同量。
氷で、しっかり冷やす。
「強いですよ?」
「……今日は、強くなりたい」
舞は、くすっと笑った。
「じゃあ、負けないように」
グラスを置く指が、わずかに触れる。
それだけで、男は息を呑んだ。
夜が深まるにつれ、ラウンジは静かに満ちていく。
誰も大声では話さない。
ただ、グラスの音と、氷の鳴る音だけ。
舞は、結に声をかけた。
「結ちゃん、少し来て」
「は、はい」
「これ、何のカクテルかわかる?」
淡い紫色の液体。
「……きれい」
「アヴィエーション。
“飛行”って意味」
「……飛ぶ?」
「ええ。
現実から、少しだけ」
舞は、グラスを見つめながら言った。
「大人になるとね、逃げ場が必要になるの」
「……舞さんも?」
舞は、一瞬だけ、目を伏せた。
「もちろん」
だが、それ以上は語らない。
閉店間際。
最後の客が帰りラウンジに残ったのはスタッフだけ。
「……舞さん、すごいですね」
結が素直に言う。
「何が?」
「人を、安心させる感じが」
舞は、グラスを拭きながら答えた。
「料理も、カクテルも、同じよ」
「同じ?」
「誰かの夜を、無事に終わらせる仕事」
いつの間にか居た奏が、静かに頷いた。
「……それは、正しい」
舞は、初めて奏をまっすぐ見た。
「あなたの料理も、艶やかよ」
「……そうか」
「ええ。
生きる気力が残る艶っていうのかな」
その言葉に、奏は返事をしなかった。
だが、わずかに口角が上がった。
灯りを落とす。
ラウンジは、再び静寂に戻る。
結は思った。
(艶やかって……派手なことじゃないんだ)
静かに、人を救うこと。
それが、大人の夜の艶なのだと。
田町舞は、最後にカウンターを撫で、呟いた。
「……また、夜に会いましょう」
艶やかな夜は、そうして、誰にも見送られずに終わった。
第54話 「地下アイドルと推しとハンバーグプレートと」につづく
理由は単純だ。
田町舞が、カウンターに立っているから。
「今日は男性客多くないですか?」
結が小声で京子に聞くと、京子は肩をすくめた。
「今日はバーカウンターオープンの日だからね
みんな舞目当てなのよ」
ラウンジの照明は、間接光だけ。
グラスに反射する琥珀色やルビー色が、壁に淡く揺れる。
田町舞は、黒に近い深緑のワンピースを着ていた。
露出は少ない。
だが、首筋と手首が、やけに艶めいて見える。
「いらっしゃいませ」
低く、柔らかい声。
その一言で、空気が変わる。
舞は、元々はホテルの設備担当だ。
だが、夜だけはバーテンダーになる。
理由を聞いても、彼女は笑ってこう言うだけだった。
「夜に向いてるのよ、私」
グラスを磨く指先は、無駄がなく、しなやかだ。
氷を落とす音すら、計算されているかのよう。
最初の客は、一人旅の女性だった。
「……何か、落ち着くものを」
「甘さは?」
「控えめで」
舞は、迷わずボトルを選ぶ。
「アメリカーノにしましょう」
カンパリの赤。
ベルモットの深み。
最後に、ソーダで軽く伸ばす。
差し出すとき、舞は一瞬だけ目を合わせた。
「今夜は、強がらなくていい夜ですから」
客は、何も言えずに微笑んだ。
結は、少し離れたところから見ていた。
(……夜の舞さんはやっぱり昼とは全然違う)
昼間の舞は、きっちりしていて、無駄話をしない。
でも今は――
人の心を、ほどく役をしている。
「見惚れてる?」
背後から、京子の声。
「……はい」
「……わかる」
短く、それだけ。
次の客は、常連の男性。
仕事帰りらしく、肩に疲れを溜めている。
「いつもの?」
「……今日は、違うのを」
舞は、少しだけ首をかしげた。
「……じゃあ、ネグローニ」
ジン、カンパリ、ベルモット。
同量。
氷で、しっかり冷やす。
「強いですよ?」
「……今日は、強くなりたい」
舞は、くすっと笑った。
「じゃあ、負けないように」
グラスを置く指が、わずかに触れる。
それだけで、男は息を呑んだ。
夜が深まるにつれ、ラウンジは静かに満ちていく。
誰も大声では話さない。
ただ、グラスの音と、氷の鳴る音だけ。
舞は、結に声をかけた。
「結ちゃん、少し来て」
「は、はい」
「これ、何のカクテルかわかる?」
淡い紫色の液体。
「……きれい」
「アヴィエーション。
“飛行”って意味」
「……飛ぶ?」
「ええ。
現実から、少しだけ」
舞は、グラスを見つめながら言った。
「大人になるとね、逃げ場が必要になるの」
「……舞さんも?」
舞は、一瞬だけ、目を伏せた。
「もちろん」
だが、それ以上は語らない。
閉店間際。
最後の客が帰りラウンジに残ったのはスタッフだけ。
「……舞さん、すごいですね」
結が素直に言う。
「何が?」
「人を、安心させる感じが」
舞は、グラスを拭きながら答えた。
「料理も、カクテルも、同じよ」
「同じ?」
「誰かの夜を、無事に終わらせる仕事」
いつの間にか居た奏が、静かに頷いた。
「……それは、正しい」
舞は、初めて奏をまっすぐ見た。
「あなたの料理も、艶やかよ」
「……そうか」
「ええ。
生きる気力が残る艶っていうのかな」
その言葉に、奏は返事をしなかった。
だが、わずかに口角が上がった。
灯りを落とす。
ラウンジは、再び静寂に戻る。
結は思った。
(艶やかって……派手なことじゃないんだ)
静かに、人を救うこと。
それが、大人の夜の艶なのだと。
田町舞は、最後にカウンターを撫で、呟いた。
「……また、夜に会いましょう」
艶やかな夜は、そうして、誰にも見送られずに終わった。
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