ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第1章 宿り木ホテルと季節の人々

第52話  缶詰め漫画家と編集者と鍋焼きうどんと

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 その客は、もう二か月もホテルに泊まっていた。
 しかも、外に出ない。

 正確に言えば、
 部屋と食堂と大浴場の三点だけを往復する生活を、延々と続けている。

「……まだいる」
 フロントの三条京子が、宿泊リストを見て呟いた。

「今日で六十三泊目ですね」
 江藤快が淡々と補足する。

「長期滞在のお客様は珍しくないけど……」
 京子は眉をひそめた。

 客は二人。

 1人は漫画家の相馬そしてもう1人はその編集担当の岸本だった
 二人は、部屋で黙々と作業を続けていた。

 原稿、ネーム、赤字、修正、却下、再構成。

「……違う」
 相馬が、原稿用紙を丸める。

「どこがですか」
 岸本は、感情を殺した声で聞く。

「全部」

「全部じゃ、直しようがありません」

「じゃあ、描けない」

 会話は、それきり止まる。

 部屋には、沈黙とコーヒーの苦い匂いだけが残る。

 結は、配膳の途中でその部屋の前を通るたび、足を止めていた。

(……なんだろう、この感じ)

 ドア越しに伝わってくるのは、怒鳴り声でも悲鳴でもない。

 ただ――
 行き場のない煮詰まり。

「気になるのか?」

 後ろから声をかけたのは、奏だった。

「……はい」
 結は正直に答える。
「なんだか心がずっと寒そうで」

 奏は、少し考えてから言った。

「……今夜、鍋焼きうどんにするか」

「え?」

「理由はわかるな」

 夜。

 相馬と岸本の部屋に、ノックの音が響いた。

「お食事をお持ちしました」

 扉を開けた岸本が、目を瞬かせる。

「……鍋焼きうどん?」

 ぐつぐつと音を立てる土鍋。
 蓋を取った瞬間、湯気と出汁の香りが部屋に広がる。

 鶏肉。
 椎茸。
 ほうれん草。
 卵は、半熟で止めてある。

「暖まってください」
 結が、そっと言った。

 相馬は、何も言わずに箸を取った。

 一口。

 ……二口。

 相馬の肩が、ほんのわずかに下がる。

「……ああ」

 それだけ。

 岸本も、黙って食べ始める。

 言葉はない。
 でも、空気がほどけていく。

「……思い出すな」

 相馬が、ぽつりと言った。

「何をですか」

「売れる前。
 編集部で、徹夜して……
 朝方、誰かが買ってきたコンビニの鍋焼きうどん」

 岸本が、目を伏せる。

「……俺、あの頃は“勢いがある”って言われてました」

「今は?」

「……“安定してる”」

 相馬は、鼻で笑った。

「それ、褒め言葉じゃない」

「知ってます」

 二人の間に、短い沈黙。

 だが、さっきまでの重さはない。

 翌朝。

 相馬は、ロビーで初めて長居した。

 ソファに座り、何もせず、ただ窓の外を見る。

「……このホテル、変ですね」

 支配人が、にやりと笑う。

「そうですか? どこがでしょうか?」

「仕事させる気、ないでしょう」

「それが私どもの仕事です」

 三日後。

 岸本が、フロントに駆け込んできた。

「すみません、延泊……」

「喜んで」

「……あの、鍋焼きうどん、もう一度いただけますか?」

「承知しました」

 二週間後。

 相馬の部屋から、原稿が出た。

 久しぶりの、納得のいく一本。

「……描けました」

 相馬は、結にだけそう言った。

「よかったですね」

「……あれのおかげです」

 鍋焼きうどん。

 派手な料理じゃない。
 だが、止まっていた時間を動かす力があった。

 チェックアウトの日。

 岸本が、深く頭を下げる。

「……正直、ここに来なかったら、連載終わってました」

「でも……」
 相馬が続ける。

「描く気力を、戻してくれた」

 奏は、目を伏せたまま言う。

「……腹が減ると、人は弱くなる」

「名言ですね」

「ただの事実だ」

 二人が去ったあと。

 結は、鍋を洗いながら言った。

「料理って……すごいですね」

「……万能じゃない」

 奏は、淡々と答える。

「でも、立ち上がる力はくれる」

 結は、湯気の消えた鍋を見つめた。

第53話 「艶やか女と艶やかな夜とカクテルと」につづく
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