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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第55話 地下アイドルと推しとハンバーグプレートと
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その青年がチェックインしたとき、結は一瞬「迷子かな」と思った。
ロビーの中央で立ち尽くし、視線は泳ぎ、両手は落ち着きなくリュックの紐を握りしめている。
黒縁の眼鏡の奥の目は、誰かに見られていないかを常に気にしているようだった。
「……あ、あの……予約、してます……」
声は小さく、語尾が消えた。
京子がいつもの接客スマイルで対応する。
「いらっしゃいませ。お名前をお願いします」
「……佐原、です……」
それだけ言って、ぺこりと深く頭を下げた。
(挙動不審……だけど、悪い人じゃない)
結はそう思った。
客室へ案内する途中も、佐原は廊下の写真や窓の外の森を、必要以上にキョロキョロと見回していた。
落ち着かないというより、“ここにいていいのか”を確かめているような、そんな不安定さがあった。
夕食の時間になっても、彼はなかなか食堂に来なかった。
結が声をかけると、はっとしたように顔を上げる。
「す、すみません……あの……」
「大丈夫ですよ。お腹、空いてませんか?」
「……空いてます……でも……」
「でも?」
佐原はしばらく黙ってから、ぽつりとこぼした。
「……ちゃんとした料理、久しぶりで……」
その言葉が、結の胸に引っかかった。
厨房に戻り、結は奏にそのまま伝えた。
「今日のお客様……たぶん、すごくいろいろな事に気を使ってるというか……」
奏はハンバーグの仕込みをしながら、ただ一言だけ言った。
「じゃあ、普通に作ろう」
それ以上、何も言わなかった。
奏の“普通”は、結が一番信頼している言葉だった。
玉ねぎを刻む音が、静かな厨房に響く。
繊維を壊しすぎないよう、包丁は一定のリズムで落ちる。
玉ねぎは水にさらさず、そのまま使う。甘みは、炒めることで引き出す。
フライパンに油を引き、弱めの中火。
玉ねぎが透明になり、ほんのり色づいたところで火を止める。焦がさない。主役はあくまで肉だ。
合い挽き肉は、手早く、でも雑にならないように練る。塩を先に入れ、粘りが出たところで胡椒。
卵は使わない。パン粉は牛乳でふやかしすぎない。
結は横で見ながら、自然と自分の呼吸も整っていくのを感じていた。
(ああ……この感じ……)
料理を“誰かのために作る”ときの、集中と静けさ。
焼く前に、表面を軽く叩いて空気を抜く。
フライパンに置いた瞬間、じゅっと音が立った。
焼き色をつけるのは最初だけ。あとは蒸し焼き。
ソースは奇をてらわない。
肉汁を残したフライパンに、赤ワイン少々。アルコールを飛ばし、ケチャップとウスターソース。バターを一片。
最後に、ほんの少しだけ、はちみつ。
香りが立ち上った瞬間、結は思った。
(これ……私が最初に“料理ってすごい”って思った味だ)
ハンバーグが皿に乗る。
付け合わせは、にんじんのグラッセ、マッシュポテト、軽くソテーしたいんげん。
どれも派手じゃない。
でも、“ちゃんとしたごはん”だ。
佐原は、運ばれてきた皿を見た瞬間、固まった。
「……あ……」
ナイフとフォークを持つ手が、わずかに震える。
ひと口。
ハンバーグにナイフを入れると、肉汁がじわっと溢れた。
口に運び、噛んだ瞬間――
「……っ」
佐原の喉が鳴った。
次の瞬間、彼は俯き、肩を小さく震わせた。
「……すみません……」
結は慌てて声をかける。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……大丈夫です……ただ……」
彼はゆっくり顔を上げた。
「……ずっと、コンビニとか……カップ麺ばっかりで……」
そして、絞り出すように言った。
「……推しが……地下アイドルなんです」
結は、黙って聞いた。
「その子が……“生きてていい”って言ってくれて……それで……」
彼の声は震えていた。
「仕事、辞めて……何もできなくなって……でも……」
ハンバーグを、もうひと口。
「……この味……ちゃんと……生きてる人の味がして……」
結の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
(ああ……これだ)
評価でも、話題でもない。
誰かが“生きてていい”と思える時間。
それを作りたくて、料理をしていたはずだった。
厨房の奥で、奏は何も言わず、ただ片付けをしていた。
聞こえているはずなのに、口を挟まない。
佐原は食べ終え、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました……本当に……」
結は微笑んだ。
「また……お腹空いたら、来てください」
佐原は、小さく笑った。
「……推しにも……このホテル、勧めます」
その夜、結は厨房で一人、まな板を拭きながら考えていた。
奏が、隣に立つ。
「……良かったな」
それだけだった。
でも、その一言で十分だった。
結は、はっきりと分かった。
料理は、人生を全部救えなくてもいい。
ほんの一瞬、立ち止まらせて、呼吸をさせられたら。
それで、十分なんだと。
ソラス・フォレストの夜は、今日も静かに更けていった。
第56話「復活と無理せずとカツ丼と」につづく
ロビーの中央で立ち尽くし、視線は泳ぎ、両手は落ち着きなくリュックの紐を握りしめている。
黒縁の眼鏡の奥の目は、誰かに見られていないかを常に気にしているようだった。
「……あ、あの……予約、してます……」
声は小さく、語尾が消えた。
京子がいつもの接客スマイルで対応する。
「いらっしゃいませ。お名前をお願いします」
「……佐原、です……」
それだけ言って、ぺこりと深く頭を下げた。
(挙動不審……だけど、悪い人じゃない)
結はそう思った。
客室へ案内する途中も、佐原は廊下の写真や窓の外の森を、必要以上にキョロキョロと見回していた。
落ち着かないというより、“ここにいていいのか”を確かめているような、そんな不安定さがあった。
夕食の時間になっても、彼はなかなか食堂に来なかった。
結が声をかけると、はっとしたように顔を上げる。
「す、すみません……あの……」
「大丈夫ですよ。お腹、空いてませんか?」
「……空いてます……でも……」
「でも?」
佐原はしばらく黙ってから、ぽつりとこぼした。
「……ちゃんとした料理、久しぶりで……」
その言葉が、結の胸に引っかかった。
厨房に戻り、結は奏にそのまま伝えた。
「今日のお客様……たぶん、すごくいろいろな事に気を使ってるというか……」
奏はハンバーグの仕込みをしながら、ただ一言だけ言った。
「じゃあ、普通に作ろう」
それ以上、何も言わなかった。
奏の“普通”は、結が一番信頼している言葉だった。
玉ねぎを刻む音が、静かな厨房に響く。
繊維を壊しすぎないよう、包丁は一定のリズムで落ちる。
玉ねぎは水にさらさず、そのまま使う。甘みは、炒めることで引き出す。
フライパンに油を引き、弱めの中火。
玉ねぎが透明になり、ほんのり色づいたところで火を止める。焦がさない。主役はあくまで肉だ。
合い挽き肉は、手早く、でも雑にならないように練る。塩を先に入れ、粘りが出たところで胡椒。
卵は使わない。パン粉は牛乳でふやかしすぎない。
結は横で見ながら、自然と自分の呼吸も整っていくのを感じていた。
(ああ……この感じ……)
料理を“誰かのために作る”ときの、集中と静けさ。
焼く前に、表面を軽く叩いて空気を抜く。
フライパンに置いた瞬間、じゅっと音が立った。
焼き色をつけるのは最初だけ。あとは蒸し焼き。
ソースは奇をてらわない。
肉汁を残したフライパンに、赤ワイン少々。アルコールを飛ばし、ケチャップとウスターソース。バターを一片。
最後に、ほんの少しだけ、はちみつ。
香りが立ち上った瞬間、結は思った。
(これ……私が最初に“料理ってすごい”って思った味だ)
ハンバーグが皿に乗る。
付け合わせは、にんじんのグラッセ、マッシュポテト、軽くソテーしたいんげん。
どれも派手じゃない。
でも、“ちゃんとしたごはん”だ。
佐原は、運ばれてきた皿を見た瞬間、固まった。
「……あ……」
ナイフとフォークを持つ手が、わずかに震える。
ひと口。
ハンバーグにナイフを入れると、肉汁がじわっと溢れた。
口に運び、噛んだ瞬間――
「……っ」
佐原の喉が鳴った。
次の瞬間、彼は俯き、肩を小さく震わせた。
「……すみません……」
結は慌てて声をかける。
「だ、大丈夫ですか!?」
「……大丈夫です……ただ……」
彼はゆっくり顔を上げた。
「……ずっと、コンビニとか……カップ麺ばっかりで……」
そして、絞り出すように言った。
「……推しが……地下アイドルなんです」
結は、黙って聞いた。
「その子が……“生きてていい”って言ってくれて……それで……」
彼の声は震えていた。
「仕事、辞めて……何もできなくなって……でも……」
ハンバーグを、もうひと口。
「……この味……ちゃんと……生きてる人の味がして……」
結の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
(ああ……これだ)
評価でも、話題でもない。
誰かが“生きてていい”と思える時間。
それを作りたくて、料理をしていたはずだった。
厨房の奥で、奏は何も言わず、ただ片付けをしていた。
聞こえているはずなのに、口を挟まない。
佐原は食べ終え、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました……本当に……」
結は微笑んだ。
「また……お腹空いたら、来てください」
佐原は、小さく笑った。
「……推しにも……このホテル、勧めます」
その夜、結は厨房で一人、まな板を拭きながら考えていた。
奏が、隣に立つ。
「……良かったな」
それだけだった。
でも、その一言で十分だった。
結は、はっきりと分かった。
料理は、人生を全部救えなくてもいい。
ほんの一瞬、立ち止まらせて、呼吸をさせられたら。
それで、十分なんだと。
ソラス・フォレストの夜は、今日も静かに更けていった。
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