ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第1章 宿り木ホテルと季節の人々

第56話 復活と無理せずとカツ丼と

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 その朝、厨房はいつもより少し静かだった。

 包丁の音も、フライパンの立ち上がりも、どこか間がある。
 誰かが欠けていた空間が、まだ埋まりきっていない。

「……公、今日から復帰だよね」

 結がぽつりと言うと、京子がカウンター越しに頷いた。

「うん。一週間。流行病って言っても、若いからすぐ戻ると思ってたけど……」

「思ったより長かったですね」

「ね。……でも」

 京子は声を潜めた。

「本人、かなり気にしてると思うわよ。“迷惑かけた”って」

 結は手元の仕込みを止め、少し考えた。

 新人の公――
 生意気で、口が達者で、腕に自信があって、それでいてどこか空回りしている三十歳。

 衝突もあった。
 料理でぶつかり、言葉で傷つけ合い、親子丼でようやく一歩近づいた。

 そんな矢先の、突然の欠勤。

(……そりゃ、居づらいよね)

 午前十時、バックヤードのドアが控えめに開いた。

「……おはようございます」

 公だった。

 顔色はまだ少し悪く、痩せたようにも見える。
 でも、背筋は伸ばしていた。

「……あ」

 結と目が合い、公は一瞬だけ視線を逸らした。

「……一週間、休んでしまって……すみませんでした」

 その言葉は、思ったより硬かった。

 厨房の空気が、ぴんと張る。

 支配人の木島が、間の悪さを吹き飛ばすように大きく手を叩いた。

「よし! おかえり! 病み上がりなんだから無理すんなよ!」

「は、はい……」

 でも、公の肩はこわばったままだ。

 奏は何も言わず、仕込み台の前に立っている。
 視線も向けない。

 それが、いつもの奏だった。

 午前の仕込みが始まる。

 公は動こうとするが、どこかぎこちない。
 包丁の動きも、少し遅い。

「……公」

 結が声をかける。

「今日は無理しないで。コンロは私が見るから、野菜お願い」

「……はい」

 素直すぎる返事に、結は少し驚いた。

 昼のまかないの時間が近づく。

 奏が、ふいに言った。

「……今日は、カツ丼にする」

 その一言に、公の肩がぴくっと動いた。

 カツ丼。

 新人が一番最初に「簡単です」と言いがちな料理であり、
 一番“誤魔化しが効かない”料理でもある。

 豚肉の筋切り。
 衣の厚さ。
 揚げ油の温度。
 卵の火入れ。
 出汁の塩梅。

 全部が、その人の“基礎”を映す。

 公は、揚げ場の前で立ち止まった。

「……俺、やります」

 結は一瞬迷ったが、頷いた。

「……無理なら、言って」

「はい」

 油に衣を落とす。

 じゅわ、と立つ音は悪くない。
 温度も合っている。

 でも、公の動きは慎重すぎた。

 病み上がりの体と、失敗したくない気持ちが、指先を固くしている。

 揚げ上がったカツを休ませ、出汁を張った鍋に入れる。

 玉ねぎ。
 煮すぎない。
 香りが立ったところで、カツ。

 卵を回し入れる手が、わずかに震えた。

「……っ」

 半熟にはならなかった。
 少し火が入りすぎた。

 公は、唇を噛んだ。

「……すみません……」

 誰に向けてか分からない謝罪。

 奏は、鍋を覗き込み、短く言った。

「……そのまま出せ」

「……え」

「失敗じゃない」

 丼に盛られたカツ丼は、
 完璧ではないが、誠実だった。

 卵はやや固め。
 でも、出汁はきれいに染みている。
 カツも、ちゃんと肉の味がする。

 全員で、いただきます。

 京子が一口食べて言った。

「……うん。悪くないじゃない」

 支配人も頷く。

「ちゃんと“腹に来る”味だな」

 公は、下を向いたまま、箸を持つ。

 自分の作ったカツ丼を、恐る恐る口に運ぶ。

「……」

 噛んだ瞬間、目が伏せられた。

「……俺……」

 声が、少し震えた。

「休んでる間、ずっと考えてました。
 いなくても、厨房は回るんだなって」

 誰も、口を挟まない。

「……それが、悔しくて……でも……」

 箸を置く。

「……戻ってきたら……ちゃんと、場所があって……」

 結は、静かに言った。

「公。いなくても回るのと、いなくていいのは、違うよ」

 公が顔を上げる。

「休むのは、迷惑じゃない。
 戻ってこない方が、迷惑」

 奏が、最後に言った。

「……料理はな。
 一回、火を止めたくらいで、終わらねえ」

 公は、しばらく黙ってから、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

 その夜。

 公は、少しだけ背中を伸ばして厨房を出た。

 結は、その後ろ姿を見ながら思った。

(……やっと、戻ってきたね)

 湯気の向こうで、
 カツ丼の匂いが、まだほんのり残っていた。

 それは、“ここにいていい”という匂いだった。


第57話 「殺風景と部屋改造とそば」につづく
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