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第1章 宿り木ホテルと季節の人々
第57話 殺風景と部屋改造とそば
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事件は、まったく事件らしくないところから始まった。
客室点検の関係で、支配人が何気なく言ったのだ。
「そういえば、神谷の部屋って確認したことあるか?」
「……ないですね」
結が答えると、京子が首をかしげた。
「え、奏さんってどんな部屋住んでるの?
あの人、私生活が一ミリも見えないんだけど」
「本人に聞けばいいだろ」
そう言って、支配人は奏を呼び止めた。
「神谷、ちょっと部屋見せてくれ」
「……は?」
奏は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、特に拒む理由もないのか、鍵を差し出した。
「別に、何もないですけど」
その言葉の意味を、スタッフはまだ理解していなかった。
——扉を開けるまでは。
部屋に入った瞬間、全員が固まった。
ベッド。
クローゼット。
以上。
カーテンは既製品。
机はない。
椅子もない。
時計すら、ない。
「………………」
沈黙を破ったのは京子だった。
「……牢屋?」
「京子さん」
「いや! ごめん! でもこれ、修行僧の部屋じゃない!?」
結は言葉を失っていた。
(生活感が……なさすぎる……)
支配人が恐る恐る聞く。
「神谷……ここで、寝てるだけ?」
「はい」
「くつろがないの?」
「必要ないので」
「……人としての潤いは?」
「厨房にある」
即答だった。
その瞬間、スタッフ全員の脳裏に同じ考えが浮かんだ。
(ダメだ、この人放っておくと一生このままだ)
その日の昼休憩。
スタッフルームで緊急会議が開かれた。
「奏さんの部屋、あれはダメです」
結が珍しく強い口調で言う。
「人が住む空間じゃない」
「そうよ! あれじゃ心まで乾く!」
「でも本人は気にしてないみたいだぞ」
「気にしない人ほど危ないんですって!!」
京子の声が裏返る。
結は膝の上で手を握った。
(奏さんは、何も“欲しがらない”)
(だからこそ、誰かが用意してあげないと……)
その日の午後。
スタッフ総出で、奏の部屋改造計画が始まった。
カーテンを替える。
間接照明を置く。
小さなテーブルと椅子。
本棚代わりのラック。
「観葉植物どうですか?」
「枯らしそうだな」
「……じゃあフェイクで」
「それはそれで失礼だろ」
奏は終始、困惑していた。
「……別に、必要ない」
「必要です!!」
全員の声が揃った。
夕方。
部屋は見違えるほど“人の住処”になっていた。
柔らかい灯り。
木のテーブル。
壁際には、小さな棚。
奏はしばらく黙って部屋を見回し——
「……落ち着かない」
ぽつりと漏らした。
結の胸が、きゅっと縮む。
(やっぱり……余計だった?)
その夜。
奏は厨房に立ち、そばを打っていた。
静かで、無駄のない動き。
粉と水を合わせ、丁寧にまとめる。
結が横に立つ。
「……嫌でしたか?」
奏は、手を止めずに答えた。
「嫌じゃない」
「でも、落ち着かないって……」
「“慣れてない”だけ」
そばを切る包丁の音が、一定のリズムを刻む。
「俺は、住む場所に興味がなかった」
「……」
「でも、ああやって勝手に整えられるのは」
一瞬、言葉を探すような間。
「…なんというか…悪くない」
結は、ほっと息を吐いた。
茹で上がったそばに、澄んだつゆ。
余計な飾りのない、一杯。
奏はそれを、部屋に運んだ。
新しいテーブルに、そばを置く。
灯りの下で、静かに箸を取る。
しばらくして。
「……音が、違うな。前は、何も響かなかった」
今は、箸の音も、湯気の音も、ちゃんと“返ってくる”。
奏は、そばを一口すすった。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……こういうのも、悪くないな」
翌朝。
結が廊下を歩いていると、奏の部屋の扉が少しだけ開いていた。
中から、だしの匂いが漂ってくる。
結は立ち止まり、小さく笑った。
(ちゃんと、ここで“暮らし始めてる”)
ソラス・フォレストの厨房で、
今日も一日が始まる。
殺風景だった部屋には、
今、静かな温度が宿っていた。
第58話 「元カレと復縁とコース料理と」につづく
客室点検の関係で、支配人が何気なく言ったのだ。
「そういえば、神谷の部屋って確認したことあるか?」
「……ないですね」
結が答えると、京子が首をかしげた。
「え、奏さんってどんな部屋住んでるの?
あの人、私生活が一ミリも見えないんだけど」
「本人に聞けばいいだろ」
そう言って、支配人は奏を呼び止めた。
「神谷、ちょっと部屋見せてくれ」
「……は?」
奏は一瞬だけ怪訝そうな顔をしたが、特に拒む理由もないのか、鍵を差し出した。
「別に、何もないですけど」
その言葉の意味を、スタッフはまだ理解していなかった。
——扉を開けるまでは。
部屋に入った瞬間、全員が固まった。
ベッド。
クローゼット。
以上。
カーテンは既製品。
机はない。
椅子もない。
時計すら、ない。
「………………」
沈黙を破ったのは京子だった。
「……牢屋?」
「京子さん」
「いや! ごめん! でもこれ、修行僧の部屋じゃない!?」
結は言葉を失っていた。
(生活感が……なさすぎる……)
支配人が恐る恐る聞く。
「神谷……ここで、寝てるだけ?」
「はい」
「くつろがないの?」
「必要ないので」
「……人としての潤いは?」
「厨房にある」
即答だった。
その瞬間、スタッフ全員の脳裏に同じ考えが浮かんだ。
(ダメだ、この人放っておくと一生このままだ)
その日の昼休憩。
スタッフルームで緊急会議が開かれた。
「奏さんの部屋、あれはダメです」
結が珍しく強い口調で言う。
「人が住む空間じゃない」
「そうよ! あれじゃ心まで乾く!」
「でも本人は気にしてないみたいだぞ」
「気にしない人ほど危ないんですって!!」
京子の声が裏返る。
結は膝の上で手を握った。
(奏さんは、何も“欲しがらない”)
(だからこそ、誰かが用意してあげないと……)
その日の午後。
スタッフ総出で、奏の部屋改造計画が始まった。
カーテンを替える。
間接照明を置く。
小さなテーブルと椅子。
本棚代わりのラック。
「観葉植物どうですか?」
「枯らしそうだな」
「……じゃあフェイクで」
「それはそれで失礼だろ」
奏は終始、困惑していた。
「……別に、必要ない」
「必要です!!」
全員の声が揃った。
夕方。
部屋は見違えるほど“人の住処”になっていた。
柔らかい灯り。
木のテーブル。
壁際には、小さな棚。
奏はしばらく黙って部屋を見回し——
「……落ち着かない」
ぽつりと漏らした。
結の胸が、きゅっと縮む。
(やっぱり……余計だった?)
その夜。
奏は厨房に立ち、そばを打っていた。
静かで、無駄のない動き。
粉と水を合わせ、丁寧にまとめる。
結が横に立つ。
「……嫌でしたか?」
奏は、手を止めずに答えた。
「嫌じゃない」
「でも、落ち着かないって……」
「“慣れてない”だけ」
そばを切る包丁の音が、一定のリズムを刻む。
「俺は、住む場所に興味がなかった」
「……」
「でも、ああやって勝手に整えられるのは」
一瞬、言葉を探すような間。
「…なんというか…悪くない」
結は、ほっと息を吐いた。
茹で上がったそばに、澄んだつゆ。
余計な飾りのない、一杯。
奏はそれを、部屋に運んだ。
新しいテーブルに、そばを置く。
灯りの下で、静かに箸を取る。
しばらくして。
「……音が、違うな。前は、何も響かなかった」
今は、箸の音も、湯気の音も、ちゃんと“返ってくる”。
奏は、そばを一口すすった。
そして、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……こういうのも、悪くないな」
翌朝。
結が廊下を歩いていると、奏の部屋の扉が少しだけ開いていた。
中から、だしの匂いが漂ってくる。
結は立ち止まり、小さく笑った。
(ちゃんと、ここで“暮らし始めてる”)
ソラス・フォレストの厨房で、
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殺風景だった部屋には、
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