ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第1章 宿り木ホテルと季節の人々

第58話  元カレと復縁とコース料理と

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チェックイン表の名前を見た瞬間、結の指先から血の気が引いた。
佐伯健二

 忘れようとして忘れきれなかった名前。
 料理学校時代から付き合っていた、元恋人。

(なんで今……)

 だが、予約が入ったものは仕方がない。

「たまたまだよね……」

 ロビーに現れた佐伯は、昔と同じ香水をつけていた。
 柑橘とウッドが混ざった、少し強い匂い。

「久しぶりだな、結」

「……お久しぶりです」

 業務用の声。
 感情を落とした平坦な音。

 佐伯は笑った。

「変わってないな」

(変わったよ。ずいぶん)

 その夜、佐伯はレストランの厨房近くの席を指定した。

「料理、結が作ってるんだろ?」

 結は一瞬だけ迷い、そして頷いた。

「はい。本日の前菜からデザートまで私と神谷で作らせていただいております」

 厨房に戻ると、結は深く息を吸った。

(落ち着け)

(料理に集中しろ)

 奏は何も聞かない。
 ただ、隣で静かに下準備をしている。

「……今日のメイン、何にしますか」

「鶏」

 短い返事。

「シンプルでいい」

 結はうなずいた。

前菜:根菜の温製マリネ

 薄くスライスした人参と蕪。
 低温でゆっくり火を入れ、甘みを引き出す。

 オリーブオイルは控えめ。
 酸味は、白ワインビネガーをほんの一滴。

(主張しない味)

(“わかる人だけが気づく”料理)

 皿に盛り付けると、佐伯は一口食べて首をかしげた。

「……地味だな」

 結の胸が、きゅっと締まる。

スープ:玉ねぎと鶏だしのクリアスープ

 飴色になるまで炒めた玉ねぎを、丁寧に濾す。
 濁りは一切許さない。

 鍋の中で、だしが静かに呼吸する

(今の私みたいに静かだけど染みるそれが良い)

 佐伯はスープを飲み、黙り込んだ。

「……これ、なんだ」

「玉ねぎです」

「信じられないくらい、静かな味だな」

 結は少しだけ、視線を下げた。

メイン:鶏もも肉のロースト そばの実添え

 皮目を下にして、じっくり火を入れる。
 音は最小限。
 脂がゆっくり溶け、肉に戻っていく。

 裏返すのは一度だけ。

 付け合わせは、そばの実。
 香ばしく乾煎りし、だしで含ませる。

(派手じゃないけど安心する味)

 皿を提供した瞬間、佐伯は目を細めた。

 ナイフを入れ、一口。

 しばらく、何も言わない。

「……美味い」

 ぽつりと、こぼれた。

「でもさ」

 佐伯はフォークを置いた。

「俺が知ってる結の料理じゃない」

 結は、はっきりと答えた。

「そうですね」

「昔は、もっとわかりやすかった」

「今は、わかってほしい人だけに届けばいいんです」

 佐伯は眉をひそめる。

「だから言ってるだろ。そんな料理——」

「私には向いてない?」

 結が言葉を継いだ。

「その言葉、前にも聞きましたでも今はそんな料理が私を支えてくれているんです」

 沈黙。

 厨房の奥で、奏がそっと火を弱めた。

デザート:りんごのコンポート そば蜂蜜

 皮ごと煮たりんご。
 形を崩さないぎりぎり。

 甘さは抑え、余韻を長く。

 スプーンを入れた佐伯は、動きを止めた。

「……なあ、結」

「はい」

「より戻さないか?」

 結は、りんごを煮た鍋を思い出していた。

 急げば崩れる。
 待てば、形を保つ。

「戻りません」

 静かな声。

「私は今、“壊さずに作る”料理をしています」

「……あのシェフのせいか」

「いいえ」

 結は笑顔ではっきり言った。

「私自身の選択です!」

 閉店後。

 奏は、何も聞かずに春雨を茹でた。

 湯気が立ち上る。

「……美味しかったか」

「……はい」

 結は箸を持つ手を少し震わせながら、春雨をすすった。

 鶏スープの香りが、胸に広がる。

「私、料理で答えられたかな?」

 奏は、ほんの少しだけ頷いた。

「答えられていたと思う」

 外は、静かな夜。

 過去は、もう追いかけてこなかった。


第59話「クリスマスマーケットと買い出しと屋台飯しと」につづく
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