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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に
第73話 選べる側にきた奏
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神谷奏がソラス・フォレストに来て、今日でちょうど一年だった。
だからといって、特別なことがあるわけでもない。
厨房の朝はいつも通りで、鍋は火にかかり、包丁はまな板を叩く。
ただ——
自分だけが、その事実を意識していた。
(もう一年か)
長いようで、短い。
二十年、世界を渡り歩いてきた自分にとっては、驚くほど短い時間だった。
結が厨房に入ってくる。
「おはようございます」
「おはよう」
声は自然に出る。
ぎこちなさはもうない。
付き合い始めてからも、仕事場では変わらない距離を保っている。
それができてしまうことに、奏自身が少し驚いていた。
(……居心地がいい)
その言葉が、ふと胸をよぎる。
だからこそ、厄介だった。
昼前、ロビーが少しざわついた。
「……え?」
京子がフロントから顔を出す。
「奏さん、ちょっと……お客さんなんですけど」
その言い方で、奏は察した。
厨房を出ると、ロビーに立っていたのは——
見覚えのありすぎる男だった。
「久しぶりだな、奏」
白髪交じりの髪、無駄に姿勢のいい立ち方。
年齢は六十を超えているはずだが、目だけは昔と変わらない。
「……師匠」
奏の口から、自然にその呼び名が出た。
奏には指示していた師匠が5人いる中の元師匠。
料理人としての基礎を叩き込まれ、
同時に何度も心を折られた人物。
奏が旅をする決意をしたきっかけを作った人物である
「ここが、噂のホテルか」
師匠はロビーを見回し、鼻で笑う。
「ずいぶん、静かな場所を選んだな」
「……用件は」
「お前は相変わらず可愛げがないな」
そう言いながら、師匠はソファに腰を下ろした。
「他のホテルから話が来てるだろ、
俺にも説得してくれとホテルの運営会社社長から話が来てな」
「……」
「否定しないってことは来てるな、迷ってるのか?」
師匠は楽しそうに言う。
「海外案件も含めて、条件は悪くないはずだ。
お前クラスなら、もう“選ぶ側”だろ」
奏の脳裏に浮かぶのは、
豪華な厨房、潤沢な予算、評価、名声。
そして同時に——
このホテルの厨房。
結の背中。
ぬくが厨房をうろつく風景。
「…正直…迷ってます」
奏がそう言うと、師匠は一瞬だけ目を細めた。
「ほう」
「料理のことじゃない。俺は料理ならどこでも作れる。」
「じゃあ何だ、なぜ迷う?俺には理解できん」
奏は少しだけ、言葉を探した。
「……ここにいる理由が、料理だけじゃなくなった」
結の顔が、浮かぶ。
師匠は黙り込み、やがて小さく笑った。
「お前が・・・はっ!!
一年で、ずいぶん人間くさくなったな」
「……悪いですか」
「いや」
師匠は笑顔で立ち上がる。
「むしろ、いい顔だ。
機械ぽかったお前が見ない間に人間になってるとはな」
そして、奏をまっすぐ見た。
「なあ奏。
お前はずっと“次に行く理由”ばかり探してきたな」
「……」
「でも今は、“ここにいる理由”で迷ってる」
それは、核心だった。
「引き抜きは逃げじゃない。
だが——」
師匠は、少しだけ声を落とした。
「居場所を手放す覚悟があるかどうか・・・だ」
その言葉は、重かった。
師匠は帰り際、厨房を一瞥した。
「いい厨房だ。人も、料理もな」
結と目が合う。
師匠は何も言わず、軽く会釈した。
去り際、奏にだけ聞こえる声で言う。
「答えは急ぐな。先方にはうまく引き伸ばしといてやる」
ロビーに静けさが戻る。
結が、そっと近づいた。
「……奏さん」
「うん」
「今日で、一年ですよね」
奏は驚いたように目を向ける。
「気づいてたか」
「はい。
だから……おめでとうございます」
その言葉に、胸が少しだけ緩んだ。
「…ああ…ありがとう」
奏は思う。
揺れている。
確かに揺れている。
でも——
揺れるほど、大事なものができたということだ。
一年目は、終わった。
ここからは、選び続ける章だ。
神谷奏の新しい章は、
静かに、しかし確かに、始まろうとしていた。
だからといって、特別なことがあるわけでもない。
厨房の朝はいつも通りで、鍋は火にかかり、包丁はまな板を叩く。
ただ——
自分だけが、その事実を意識していた。
(もう一年か)
長いようで、短い。
二十年、世界を渡り歩いてきた自分にとっては、驚くほど短い時間だった。
結が厨房に入ってくる。
「おはようございます」
「おはよう」
声は自然に出る。
ぎこちなさはもうない。
付き合い始めてからも、仕事場では変わらない距離を保っている。
それができてしまうことに、奏自身が少し驚いていた。
(……居心地がいい)
その言葉が、ふと胸をよぎる。
だからこそ、厄介だった。
昼前、ロビーが少しざわついた。
「……え?」
京子がフロントから顔を出す。
「奏さん、ちょっと……お客さんなんですけど」
その言い方で、奏は察した。
厨房を出ると、ロビーに立っていたのは——
見覚えのありすぎる男だった。
「久しぶりだな、奏」
白髪交じりの髪、無駄に姿勢のいい立ち方。
年齢は六十を超えているはずだが、目だけは昔と変わらない。
「……師匠」
奏の口から、自然にその呼び名が出た。
奏には指示していた師匠が5人いる中の元師匠。
料理人としての基礎を叩き込まれ、
同時に何度も心を折られた人物。
奏が旅をする決意をしたきっかけを作った人物である
「ここが、噂のホテルか」
師匠はロビーを見回し、鼻で笑う。
「ずいぶん、静かな場所を選んだな」
「……用件は」
「お前は相変わらず可愛げがないな」
そう言いながら、師匠はソファに腰を下ろした。
「他のホテルから話が来てるだろ、
俺にも説得してくれとホテルの運営会社社長から話が来てな」
「……」
「否定しないってことは来てるな、迷ってるのか?」
師匠は楽しそうに言う。
「海外案件も含めて、条件は悪くないはずだ。
お前クラスなら、もう“選ぶ側”だろ」
奏の脳裏に浮かぶのは、
豪華な厨房、潤沢な予算、評価、名声。
そして同時に——
このホテルの厨房。
結の背中。
ぬくが厨房をうろつく風景。
「…正直…迷ってます」
奏がそう言うと、師匠は一瞬だけ目を細めた。
「ほう」
「料理のことじゃない。俺は料理ならどこでも作れる。」
「じゃあ何だ、なぜ迷う?俺には理解できん」
奏は少しだけ、言葉を探した。
「……ここにいる理由が、料理だけじゃなくなった」
結の顔が、浮かぶ。
師匠は黙り込み、やがて小さく笑った。
「お前が・・・はっ!!
一年で、ずいぶん人間くさくなったな」
「……悪いですか」
「いや」
師匠は笑顔で立ち上がる。
「むしろ、いい顔だ。
機械ぽかったお前が見ない間に人間になってるとはな」
そして、奏をまっすぐ見た。
「なあ奏。
お前はずっと“次に行く理由”ばかり探してきたな」
「……」
「でも今は、“ここにいる理由”で迷ってる」
それは、核心だった。
「引き抜きは逃げじゃない。
だが——」
師匠は、少しだけ声を落とした。
「居場所を手放す覚悟があるかどうか・・・だ」
その言葉は、重かった。
師匠は帰り際、厨房を一瞥した。
「いい厨房だ。人も、料理もな」
結と目が合う。
師匠は何も言わず、軽く会釈した。
去り際、奏にだけ聞こえる声で言う。
「答えは急ぐな。先方にはうまく引き伸ばしといてやる」
ロビーに静けさが戻る。
結が、そっと近づいた。
「……奏さん」
「うん」
「今日で、一年ですよね」
奏は驚いたように目を向ける。
「気づいてたか」
「はい。
だから……おめでとうございます」
その言葉に、胸が少しだけ緩んだ。
「…ああ…ありがとう」
奏は思う。
揺れている。
確かに揺れている。
でも——
揺れるほど、大事なものができたということだ。
一年目は、終わった。
ここからは、選び続ける章だ。
神谷奏の新しい章は、
静かに、しかし確かに、始まろうとしていた。
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