76 / 152
第2章 季節の変わり目は複雑な天気に
第74話 師匠の味
しおりを挟む
その日の夕方、ソラス・フォレストの厨房は、いつもより少しだけ張り詰めていた。
理由は単純だ。
神谷奏の“師匠”が、まだホテルに滞在していたからである。
チェックアウトは翌朝。
だが、夕食は——食べないと言っていた。
「今日は、外で済ませる」
そう言っていたはずなのに。
厨房で仕込みをしていた奏の背後から、低い声がした。
「鍋、空いてるか」
振り返ると、師匠が白衣も着ずに立っていた。
「……何をするつもりですか?」
「決まってるだろ」
師匠は、調理台に手を置いた。
「料理だ」
結が思わず息を呑むのが、奏にも分かった。
「一回だけだ。もう二度と立たん」
師匠は淡々と言った。
「客に出す必要はない。スタッフ用でいい」
厨房に、静かな緊張が走る。
奏は数秒、黙ったあと、短く言った。
「……お願いします」
その瞬間、師匠の口元が、わずかに緩んだ。
作る料理は、決まっていた。
「ポトフだ」
結が一瞬、目を瞬かせる。
「……ポトフ、ですか」
「ああ」
師匠は頷く。
「世界を回って、最後に作る料理がこれだ。文句あるか」
誰も、何も言えなかった。
鍋に入るのは、牛すね肉。
骨付きのまま、下処理をしている。
師匠の包丁は、無駄がない。
速くもない。
ただ、正確だった。
「……」
結は、目を離せなかった。
野菜は、大きく切る。
玉ねぎ、人参、セロリ、キャベツ。
どれも角を落としすぎず、煮崩れしないギリギリの大きさ。
「切りすぎるな」
師匠が独り言を言う。
「形が残るってのは、手抜きじゃない。」
奏は、黙って見ていた。
かつて、同じ言葉を浴びるほど聞かされた。
水を張った鍋に、肉と野菜を入れる。
火は、弱火。
調味料は、塩だけ。
「胡椒も、ハーブも入れないんですか?」
結が思わず聞く。
「いらん」
「……」
「素材が嫌がるからねお嬢さん」
師匠は言い切る。
「余計なことをするのは、料理人の自己満足なのだよ」
鍋は、ゆっくりと温まっていく。
沸騰させない。
アクは、丁寧にすくう。
時間だけが、流れていった。
厨房の時計が、音を立てる。
誰も喋らない。
奏は、ふと気づく。
(……懐かしい)
この空気。
この緊張。
そして、逃げ場のなさ。
「奏」
師匠が不意に言った。
「お前、まだ迷ってるな」
「……」
「料理じゃない。
どこで、誰と作るかだ」
結の手が、わずかに止まる。
「ここは、いい場所だ」
師匠は続ける。
「だがな、いい場所ってのは、
“離れられなくなったら終わり”でもある」
奏は、ゆっくりと答えた。
「……分かってます」
「分かってて、揺れてるなら上等だ」
師匠は鍋の中を見つめる。
「揺れない料理人は、もう伸びない」
二時間後。
鍋の蓋が、静かに外された。
澄んだスープ。
油はほとんど浮いていない。
野菜は崩れず、肉は箸で切れるほど柔らかい。
師匠は、味見をしない。
そのまま、器に盛る。
「食え」
スタッフ全員分、ではない。
奏と結、二人分だけだった。
結は、恐る恐るスプーンを口に運ぶ。
——言葉が、出なかった。
派手さはない。
驚きもない。
塩だけなはず……
ただ、体の奥に染み込む。
「……」
結の目が、潤む。
「どうした」
「…ごめんなさい…なんか優しさが……」
師匠は、鼻で笑った。
「優しくない料理なんて、長く残らんよ」
奏も、一口飲む。
胸の奥で、何かがほどける。
(ああ……)
これだ。
自分が、料理を始めた理由。
「奏」
師匠は言う。
「お前はもう、俺の弟子じゃない」
奏は、黙って頷く。
「だが」
一拍置いて、続けた。
「同じ料理人であることからは、逃げられん」
師匠は立ち上がる。
「どこにいようと、お前はお前の料理を作れ」
そして、結を見る。
「いい顔してるねお嬢ちゃん」
「……はい?」
「こいつを、よろしく頼みます」
結は、深く頭を下げた。
「こちらこそ……ありがとうございます」
師匠は、何も言わず、厨房を出ていった。
その背中は、少しだけ小さかった。
夜。
厨房の片付けを終えたあと、奏と結は並んで立っていた。
「……すごい人ですね」
結が言う。
「ああ変わらない凄さを感じたよ」
「正直……怖かったです」
「だろうな」
「でも……」
結は、奏を見る。
「奏さんの料理の“根っこ”が、分かった気がします」
奏は、少し驚いたように笑った。
「そうか」
「はい」
結は、静かに言った。
「だから、どこに行っても……奏さんは奏さんだと思います」
その言葉が、胸に残る。
一年。
迷い。
選択。
だが、確かなものもある。
料理は、逃げない。
居場所も、簡単には壊れない。
師匠は、もう戻らない。
だが——
残したものは、確かにここにあった。
理由は単純だ。
神谷奏の“師匠”が、まだホテルに滞在していたからである。
チェックアウトは翌朝。
だが、夕食は——食べないと言っていた。
「今日は、外で済ませる」
そう言っていたはずなのに。
厨房で仕込みをしていた奏の背後から、低い声がした。
「鍋、空いてるか」
振り返ると、師匠が白衣も着ずに立っていた。
「……何をするつもりですか?」
「決まってるだろ」
師匠は、調理台に手を置いた。
「料理だ」
結が思わず息を呑むのが、奏にも分かった。
「一回だけだ。もう二度と立たん」
師匠は淡々と言った。
「客に出す必要はない。スタッフ用でいい」
厨房に、静かな緊張が走る。
奏は数秒、黙ったあと、短く言った。
「……お願いします」
その瞬間、師匠の口元が、わずかに緩んだ。
作る料理は、決まっていた。
「ポトフだ」
結が一瞬、目を瞬かせる。
「……ポトフ、ですか」
「ああ」
師匠は頷く。
「世界を回って、最後に作る料理がこれだ。文句あるか」
誰も、何も言えなかった。
鍋に入るのは、牛すね肉。
骨付きのまま、下処理をしている。
師匠の包丁は、無駄がない。
速くもない。
ただ、正確だった。
「……」
結は、目を離せなかった。
野菜は、大きく切る。
玉ねぎ、人参、セロリ、キャベツ。
どれも角を落としすぎず、煮崩れしないギリギリの大きさ。
「切りすぎるな」
師匠が独り言を言う。
「形が残るってのは、手抜きじゃない。」
奏は、黙って見ていた。
かつて、同じ言葉を浴びるほど聞かされた。
水を張った鍋に、肉と野菜を入れる。
火は、弱火。
調味料は、塩だけ。
「胡椒も、ハーブも入れないんですか?」
結が思わず聞く。
「いらん」
「……」
「素材が嫌がるからねお嬢さん」
師匠は言い切る。
「余計なことをするのは、料理人の自己満足なのだよ」
鍋は、ゆっくりと温まっていく。
沸騰させない。
アクは、丁寧にすくう。
時間だけが、流れていった。
厨房の時計が、音を立てる。
誰も喋らない。
奏は、ふと気づく。
(……懐かしい)
この空気。
この緊張。
そして、逃げ場のなさ。
「奏」
師匠が不意に言った。
「お前、まだ迷ってるな」
「……」
「料理じゃない。
どこで、誰と作るかだ」
結の手が、わずかに止まる。
「ここは、いい場所だ」
師匠は続ける。
「だがな、いい場所ってのは、
“離れられなくなったら終わり”でもある」
奏は、ゆっくりと答えた。
「……分かってます」
「分かってて、揺れてるなら上等だ」
師匠は鍋の中を見つめる。
「揺れない料理人は、もう伸びない」
二時間後。
鍋の蓋が、静かに外された。
澄んだスープ。
油はほとんど浮いていない。
野菜は崩れず、肉は箸で切れるほど柔らかい。
師匠は、味見をしない。
そのまま、器に盛る。
「食え」
スタッフ全員分、ではない。
奏と結、二人分だけだった。
結は、恐る恐るスプーンを口に運ぶ。
——言葉が、出なかった。
派手さはない。
驚きもない。
塩だけなはず……
ただ、体の奥に染み込む。
「……」
結の目が、潤む。
「どうした」
「…ごめんなさい…なんか優しさが……」
師匠は、鼻で笑った。
「優しくない料理なんて、長く残らんよ」
奏も、一口飲む。
胸の奥で、何かがほどける。
(ああ……)
これだ。
自分が、料理を始めた理由。
「奏」
師匠は言う。
「お前はもう、俺の弟子じゃない」
奏は、黙って頷く。
「だが」
一拍置いて、続けた。
「同じ料理人であることからは、逃げられん」
師匠は立ち上がる。
「どこにいようと、お前はお前の料理を作れ」
そして、結を見る。
「いい顔してるねお嬢ちゃん」
「……はい?」
「こいつを、よろしく頼みます」
結は、深く頭を下げた。
「こちらこそ……ありがとうございます」
師匠は、何も言わず、厨房を出ていった。
その背中は、少しだけ小さかった。
夜。
厨房の片付けを終えたあと、奏と結は並んで立っていた。
「……すごい人ですね」
結が言う。
「ああ変わらない凄さを感じたよ」
「正直……怖かったです」
「だろうな」
「でも……」
結は、奏を見る。
「奏さんの料理の“根っこ”が、分かった気がします」
奏は、少し驚いたように笑った。
「そうか」
「はい」
結は、静かに言った。
「だから、どこに行っても……奏さんは奏さんだと思います」
その言葉が、胸に残る。
一年。
迷い。
選択。
だが、確かなものもある。
料理は、逃げない。
居場所も、簡単には壊れない。
師匠は、もう戻らない。
だが——
残したものは、確かにここにあった。
10
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる