ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第75話 名前を書く夜

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 厨房に、コトコトという音が鳴っていた。

 寸胴鍋の中で、シチューが静かに呼吸している。
 沸騰はしていない。
 泡が、底から一つ、また一つと浮かび、すぐに消える。

 結は、火加減を確かめながら、腕時計を外した。

 この鍋は、もう三時間以上火にかかっている。
 それでも、まだ完成ではない。

「……まだ完成じゃない」

 独り言のように言って、蓋を少しだけずらす。

 立ち上る湯気に、赤ワインと牛骨、炒めた玉ねぎの甘さが混じる。
 鼻の奥が、じんとする匂い。

 今日のまかないは、結が任されていた。

 理由は、奏が言葉少なにこう言ったからだ。

「……シチュー、仕込んでみろ」

 それだけ。

 だが結には、分かっていた。

 国内最高峰の料理コンクール。
 募集要項が発表されたのは、昨日。

 テーマは——
 《継承と革新》。

 結は、その紙を、ポケットに入れたまま、まだ誰にも言っていない。

 玉ねぎは、最初から色を付けすぎない。
 バターでじっくり汗をかかせる。

 人参とセロリは、角を立てない大きさに切る。
 主役にならないサイズ。

 牛すね肉は、前日に血抜きをしてある。
 焼き色を付けるのは、あくまで香りのため。

 結は、一つ一つの工程を、頭の中で確認しながら進めていた。

(……私、出たい)

 胸の奥で、言葉が形になる。

 怖さは、ある。
 奏の背中を、これほど近くで見てきたからこそ。

 自分の未熟さも、知っている。

 寸胴の横で、足音が止まった。

「……いい匂いだな」

 公だった。

「でもまだ完成じゃないです」

「分かってる。
 この匂いは“途中”の匂いだ」

 公は、腕を組んで鍋を覗く。

「シチューか」

「はい」

「……コンクール用?」

 結の心臓が、跳ねた。

「……まだ、エントリーはしてません」

「でも、考えてるんだろ」

 断定だった。

 結は、嘘をつかなかった。

「はい」

 公は、少しだけ笑った。

「いいじゃん」

「……公さんは」

「俺?」

 公は、肩をすくめる。

「前回大会、二回戦敗退。
 審査員のコメント、“技術はあるが、芯が弱い”」

 苦笑だった。

「正直、悔しかったよ」

「……」

「でもな」

 公は、結を見る。

「その悔しさがなかったら、
 今も“誰かの料理”をなぞってたと思う」

 結は、火を弱めた。

 シチューは、ここからが勝負だ。

 小麦粉は使わない。
 代わりに、じゃがいもを少量だけ裏ごしして、自然なとろみを出す。

 塩は、最後まで入れない。

 結は、鍋の縁に落ちた雫を、丁寧に拭った。

「……私、怖いです」

「うん」

「奏さんの厨房にいると、
 自分が料理人だって、錯覚しそうになる」

 公は、黙って聞いている。

「でも、それじゃダメだって……最近、やっと」

 鍋の中で、肉がほろりとほどける。

「負けてもいい。
 二回戦で落ちてもいい」

 結は、深く息を吸った。

「でも、“出なかった後悔”だけは、したくないです」

 公は、ゆっくり頷いた。

「それでいい」

 そのとき、背後で足音。

 奏だった。

 何も言わず、鍋を覗く。

 スプーンで一口すくい、口に含む。

 長い沈黙。

 結は、息を止めていた。

「…うまい…焦ってないな」

 それだけ言って、スプーンを戻す。

「火も、素材も、ちゃんと意味を待ってる」

 結の胸が、熱くなる。

 奏は、視線を逸らしたまま言った。

「エントリーするなら、書類は自分で出せ」

「……はい」

「名前も、一人で書け」

 結は、はっきりと頷いた。

「はい」

 その夜。

 結は、事務室で、応募用紙を開いた。

 一瞬だけ、手が止まる。

 ——神谷奏の名前は、どこにも書かない。

 ペンを握り、ゆっくりと記す。

 『佐山 結』

 それだけ。

 厨房では、まだシチューが静かに煮えている。

 時間をかけて、
 削ぎ落として、
 それでも残る味を信じて。

 結は、料理人として、
 初めて“自分の名前”で、火の前に立った。                 
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