ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第79話 すべてを捨てる朝

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 朝の厨房は、夜とは別の顔をしている。

 窓から差し込む冬の光は白く、まだ人の体温を帯びていない。
 床は冷たく、ステンレスは少しだけ青い。

 結は、誰よりも早く厨房に入っていた。

 コックコートを羽織りボタンをとめエプロンを締める。
 その手つきはいつも通りなのに、胸の奥だけが妙に重い。

 冷蔵庫の扉を開けた。

 中段に、昨日の試作が並んでいる。
 寸胴鍋、ソースポット、小鍋。
 丁寧にラップをかけ、温度管理も完璧。

(……やっぱり)

 結は、鍋を一つ引き出した。
 蓋を開けるとシチューの香りが立ち上る。

 悪くない。
 むしろ、良い。

 昨日よりも落ち着いている。

 でも。

(……違う)

 結は、スプーンを手に取らなかった。
 味見すらしない。

 その代わり、深く息を吸う。

 そして、シンクの前に鍋を運んだ。



 ――捨てる。



 指先が、わずかに震える。

(やっぱり……怖い)

 でも、昨夜の奏の言葉が、まだ耳に残っていた。

『怖いまま寝ろ』

 結は、鍋を傾けた。

 とろり、と。

 シチューが、シンクに流れ落ちる。

 香りが一瞬だけ立ち、
 排水口へ吸い込まれていく。

 音が、やけに大きく感じられた。

 結は、止めなかった。

 二つ目。
 三つ目。

 すべて。

 昨日までの“正解”を、
 何度も作り直した“努力”を全部、捨てた。

 鍋のの中は、空っぽになる。

 結は、しばらくそのまま立っていた。

(ああ……やっちゃった)

 後悔ではない。
 不安でもない。

 底が見えない穴に落ちていく感覚。

 そこへ、厨房の扉が開く音。

「……朝から豪快だな」

 振り向くと、奏が立っていた。

 結は、少しだけ息を詰める。

「……全部、捨てました」

「見りゃ分かる」

 奏は近づき、シンクを一瞥する。

 眉は動かない。

「理由は?」

「……怖かったからです」

 結は、正直に言った。

「このまま出したら、
 “誰の料理か分からない”まま通ってしまいそうで」

 奏は、少しだけ間を置いた。

「……いい判断だ」

 その一言で、結の肩の力が抜ける。

「捨てるのは作るより勇気がいるよな」

「……はい」

「でもな」

 奏は、結を見る。

「今はそれが正解だ」

「はい……分かってます」

 結は、まな板を出した。

 包丁を置く。

 玉ねぎを取り出し、皮を剥く。

 昨日までと、同じ動作。

 でも、心は違う。

(……失敗していい)

 切り方を、ほんの少し変える。
 大きさを、揃えない。

 鍋に油を引き、火を入れる。

 音が、立ち上がる。

 玉ねぎを入れた瞬間の、
 じゅっ、という音。

 結は、その音に集中する。

(……私が、どうしたいか)

 甘くしたいのか。
 苦味を残したいのか。

 答えは、レシピにはない。

 奏は、少し離れた場所で作業をしながら、
 何も言わずに見ていた。

 口を出さない。
 手も出さない。

 それが、いちばんの圧だった。

 しばらくして、公が入ってくる。

「あれ、結……?」

 シンクの空っぽな鍋を見て、目を瞬かせる。

「……全部、やり直しするのか」

「まじか」

 公は、一瞬驚いた顔をしたあと、
 小さく笑った。

「……それ、かなりしんどいやつだろ」

「……うん」

「でもさ」

 公は、自分のエプロンを締めながら言う。

「俺、二回戦落ちたときそれできなかったんだよな」

 結の手が、止まる。

「捨てるの、怖くてさ“ここまでやったのに!!”って」

 公は肩をすくめた。

「だから結が羨ましい」

 結は、何も言えなかった。

 ただ、鍋の中を見つめる。

 火は、強すぎない。
 でも、逃げない温度。

 素材の匂いが立ち上る。

(……これでいい)

 正解じゃない。
 保証もない。

 でも。

(……私が、ここにいる)

 結は、鍋に向かって、初めてそう思った。

 昼前、厨房はいつもの忙しさを取り戻す。

 誰も、捨てた鍋のことは話題にしない。

 それでいい。

 奏は、仕込みの合間に、結に一言だけ言った。

「今夜も、完成させなくていい」

「……はい」

「でも」

 一拍置いて。

「“これは違う”と思ったら、捨てる前にみんなに食べてもらえ」

 結は、強くうなずいた。

 怖さは、消えていない。

 でも。

 昨日より、足は前に出ている。

 鍋の底で、
 小さな音が鳴る。

 それは、
 結の料理が、
 初めて“自分の声”を出そうとしている音だった。
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