ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第82話 料理が嫌いになる瞬間

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 包丁を置いたその理由が自分でも分からなかった

 火を入れる前から分かっていた。

(……これ、ダメだ)

 鍋の底はまだ冷たい。
 野菜も切っていない。
 それなのに胸の奥だけが重く沈んでいる。

 結は作業台に両手をついた。

 今日で何日目だろう。
 新メニューを考え始めてから。

 シチューを“捨てろ”と言われた。
 一次の自分をいったん忘れろと。

 理屈は分かる。
 奏の言葉も、正しい。

 でも――

(忘れたら何が残るの)

 結は冷蔵庫を開けた。

 牛肉。
 香味野菜。
 バター。
 ハーブ。

 一次と同じ顔ぶれ。

「……違うの使えばいいだけなのに」

 声に出しても身体が動かない。

 違う素材。
 違う技法。
 違う皿。

 頭では無数に浮かぶ。

 でも……

(それって私の料理?)

 結は包丁を握った。

 玉ねぎに刃を当てる。

 ――止まる。

 手首が動かない。

 刃先が震えている。

(……切りたくない)

 その感覚に自分で驚いた。

 今までどんな日でも。
 疲れていても悔しくても。

 包丁を持てば、
 “料理する自分”には戻れた。

 それが。

 今日は戻れない。

 包丁を置いた瞬間
 胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

「……なんで」

 誰に言うでもなく呟く。

(料理嫌いになったの……?)

 あり得ないはずの言葉が頭をよぎる。

 震災の日から
 料理は“救い”だった。

 逃げ場で……
 支えで……
 自分を肯定してくれるものだった。

 なのに今は。

 鍋も火も、
 全部が――重たい。

 結は床に座り込んだ。

 背中を作業台に預け、
 膝を抱える。

(……やめたいって思ってる?)

 一瞬そう思った。

 そしてすぐ否定する。

(違う、やめたいんじゃない)

 ――怖いんだ。

 料理を作って“何も出せなかった自分”を認めるのが。

 一次では、褒められた。
 評価された。
 通過した。

 だからこそ。

 二次で、
 「何もありませんでした」と突きつけられるのが怖い。

(……料理が悪いんじゃない)

 分かっている。

 悪いのは、
 期待してしまった自分。

 “料理を作れば、答えが出る”と
 信じすぎた自分。

 結は目を閉じた。

 炊き出しの湯気。
 震える手で受け取った器。
 あの日の温度。

 あれは技術でも評価でもコンクールでもなかった。

 ただ、生きてる人の前に
 差し出された料理だった。

(……私、今)

 誰に向かって作ろうとしてる?

 審査員?
 評価?
 順位?

 ――自分?

 胸が、痛んだ。

 そのとき。

 厨房のドアが静かに開いた。

 振り向かなくても分かる。

 奏だ。

「……まだ起きてたか」

「……はい」

 結は顔を上げなかった。

 奏は何も言わず、
 しばらく黙っていた。

 そして。

「包丁置いたな」

 責める声ではない。
 事実を述べただけ。

「……はい」

 声が少し掠れた。

 沈黙。

 結は耐えきれず言った。

「……今日は食材切りたくなかったです」

 言った瞬間胸がいっぱいになる。

「包丁持ったら……嫌になって」

 奏は驚かなかった。

 ただ少しだけ目を細めた。

「そうか」

「……料理嫌いになったのかなって」

 奏は首を振った。

「違う」

「……」

「“嫌いになりかけた”だけだ」

 結は唇を噛む。

「……同じです」

「違う!!」

 奏は結の前にしゃがんだ。

 視線が同じ高さになる。

「嫌いになったらここに残ってない」

 結の目に涙が滲んだ。

「……じゃあ、なんでこんなに苦しいんですか?」

 奏は少し考えてから言った。

「料理を信じすぎたからだ」

「……」

「料理はお前を助けてくれるが代わりに決断はしてくれない」

 その言葉が深く刺さる。

「今はな」

 奏は静かに続けた。

「料理の前に自分が立たされてる」

「……立たされてる?」

「そうだ」

 奏は立ち上がる。

「だから今日は作らなくていい」

 結は顔を上げた。

「え……」

「嫌いになりかけた日は、
 無理に火を入れるな」

「でも……」

「料理は逃げない」

 断言だった。

「逃げるのは人間のほうだ」

 奏は結の頭に軽く手を置いた。

 撫でるでもなくただそこに置くだけ。

「今日は嫌いでいい」

 その言葉で。

 結の中で何かがほどけた。

 涙がぽろりと落ちる。

 料理が嫌いになった夜。

 それは同時に――
 自分と向き合い始めた夜でもあった。
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