ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

文字の大きさ
83 / 152
第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第81話 何も思いつかない夜

しおりを挟む
 その日の夜の厨房は、昼とは別の顔をしていた。

 換気扇の低い唸り。
 冷蔵庫の規則正しい作動音。
 誰もいないはずなのに、料理の匂いだけが残っている。

 結は、ひとりで立っていた。

 火は落としたまま。
 鍋も出していない。
 まな板も、包丁も、まだ触っていない。

(……考えろ、って言われても)

 頭の中には、一次で提出したシチューがある。

 あの日の味。
 あの日の温度。
 あの日の自分への正直さ。

 あれを――どう“壊せば”いい?

 ノートを開く。

 ページの中央に、大きく書いた。

 「シチュー」

 そこから線を引く。

 イメージ
 煮込み。
 家庭。
 冬。
 待つ料理。
 高級感

 線を引くたび、苦しくなる。

(……全部もう書いた)

 一次審査で言葉にした。
 文章にして提出した。

 “私は、こういう料理人です”と。

 なのに。

 二次では、それを材料に、
 別の料理を作れと言われている。

 結は椅子に腰を下ろした。

 無意識にスマートフォンを見る。

 通知はない。

 ――奏からも。

(……当たり前か)

 今は聞かれても困る。
 助けを求める言葉すら浮かばない。

 結は冷蔵庫を開けた。

 玉ねぎ。
 人参。
 セロリ。
 牛すね肉。

 一次と同じ材料。

 扉を閉める。

(……同じものしか、見えない)

 頭では分かっている。

 シチューを“展開”する方法はいくらでもある。

 ソースにする。
 具を解体する。
 冷製にする。
 揚げる。
 詰める。

 でも。

(それって……逃げじゃない?)

 技術でごまかすことはできる。
 でも、それは「別の料理」じゃない。

 ただの形を変えた自己模倣。

 結はエプロンを外した。

 床に座り込み背中を作業台に預ける。

 天井を見上げると蛍光灯が眩しい。

(……私、何を作りたいんだろ)

 震災の日。
 炊き出しの湯気。
 名も知らない料理人の背中。

 あの人は、何を考えて料理をしていたんだろう。

 慰め?
 使命?
 責任?

 それとも――
 ただ、目の前の人を空腹から救うだけ?

「……分かんないよ」

 声に出した途端情けなくなった。

 厨房の時計を見る。

 もう、深夜だ。

 外は静かでホテル全体が眠っている。

 結はゆっくり立ち上がった。

 鍋を出す。
 水を張る。

 火をつける。

 理由はない。
 作る料理も、決めていない。

 ただ手を動かしたかった。

 玉ねぎを刻む。

 音がやけに大きく響く。

 人参を切る。

 指先が少し震えている。

(……違う)

 鍋に入れかけて止まる。

(これじゃ、一次と同じ)

 結は材料を戻した。

 鍋の火を消す。

 ――だめだ。

 何をやっても、
 一次の影が追いかけてくる。

 そのとき。

 背後で足音。

 振り向くと奏が立っていた。

「……起きてたんですか」

「ああ」

 それだけ。

 奏は結の手元を見た。

 出した鍋。
 切りかけの野菜。
 そして、何も始まっていない現実。

「……浮かばないか」

 結は少し迷ってから頷いた。

「……全部、もう書いた気がして」

「ほう」

「一次で、“自分”を出し切った気がして……
 これ以上、何を出せばいいのか分からないです」

 奏は少し考えた。

 そして言った。

「それはな」

「……はい」

「多分、正解だ」

 結は顔を上げた。

「え?」

「出し切ったんだろ」

「……はい」

「じゃあ次は、“捨てる番だ”」

 その言葉に、息をのむ。

「捨てる……?」

「一次の自分を、一度忘れろ」

「でも、それじゃ……」

「怖いだろ」

 奏は、静かに続ける。

「料理人はな、
 一番うまくいった料理が、
 一番の足かせになる」

 結は唇を噛んだ。

「……じゃあ、私は」

「今、ちゃんと迷ってる」

 奏はそれだけ言った。

 助言はしない。
 答えも出さない。

 でもその背中は――
 逃げていなかった。

 奏は厨房を出る前に振り返る。

「夜は長い」

「……はい」

「浮かばないなら浮かばないままいろ」

 ドアが閉まる。

 結はひとり残された。

 でも。

 さっきまでの孤独とは少し違う。

(……捨てる)

 結は、ノートを閉じた。

 そして新しいページを開く。

 そこにこう書いた。

 「シチューじゃない何か」

 まだ料理の名前はない。
 でも――

 この夜は、
 確実に次へ進んでいた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

処理中です...