ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第89話 噺家さんと煮物の噺

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 その日の宿泊名簿を見た京子は二度見した。

「……え?」

 もう一度目を凝らす。

「……ええ?」

 そして、確信した瞬間口元が引きつった。

「……結ちゃん。
 今日のお客様ちょっと面白い人来るわ」

「面白いって……?」

「落語家!!しかも今めちゃくちゃ人気の女性噺家」

 結が瞬きをする。

「テレビで見る人ですか?」

「落語会のチケットは即完売の人。
 名前は――春風亭 いと」

「……あっ」

 思い当たる節がある。
 ラジオで聞いたことのある柔らかい声。

 チェックイン時間。

 ロビーに現れた女性は想像よりずっと小柄だった。
 派手さはなく紺色の着物に控えめな帯。
 ただ、立っているだけで空気が少しだけ変わる。

「春風亭いとです。
 本日はよろしくお願いいたします」

 深くきれいな礼。

 京子は反射的に完璧な接客モードに入った。

「ようこそ、ソラス・フォレストへ。
 長旅、お疲れではありませんか?」

「ええ、でも……」

 いとは、ふっと笑った。

「この静けさがもうご馳走ですね」

(うわ、この人……言葉の選び方が噺家だわ)

 京子の心の声が危うく漏れかけた。

 夕食は、いとの希望で「お任せ・量少なめ」。

「たくさん食べるとなんか噺が重くなるんです」

 厨房で奏が静かに献立を組み立てる。

「派手な料理は出さない」

 それだけ言って鍋に火を入れた。

 最初の一品は白身魚の吸い物。

 昆布は利尻。
 鰹は一番だしだけ。
 余計な旨味は足さない。

 椀の蓋を開けた瞬間湯気が立ち上る。

「……」

 いとはすぐには口をつけなかった。

 香りを吸い、間を置く。

 そしてひと口。

「……あぁ」

 それだけ。

 だが、その一音に結は息をのんだ。

(今の、“間”……)

 噺で言えばサゲの直前だ。

 続く煮物は根菜の炊き合わせ。

 大根、人参、里芋。
 味は染みているが、輪郭が崩れていない。

 箸を入れるとすっと切れる。

「煮物って煮すぎるとダメなんですよ」

 いとが言う。

「味も噺も」

 奏は一瞬だけ視線を上げた。

「……同感です」

 メインは鶏の治部煮。

 片栗粉を薄くまぶし低温で火を通す。
 出汁に戻したときとろみが自然に絡む。

 口に入れるとまず出汁。
 次に鶏の旨味。
 最後にほのかな生姜。

「……これ」

 いとは箸を止め少し考えてから言った。

「“説明しない優しさ”ですね」

 結の胸がきゅっとなる。

 奏は何も言わない。
 ただ、次の料理を出す。

 食後、ロビーで少しだけ話す時間があった。

「厨房少しだけ見てもいいですか?」

 いとの申し出に結が案内する。

「音がいい」

 厨房に入った瞬間いとが言った。

「包丁の音、火の音。
 全部、ちゃんと“間”がある」

 結は思わず聞いた。

「噺と料理って……似てますか?」

 いとは少し考えてから答えた。

「似てますよ。
 どちらも、“伝えすぎない”仕事です」

「伝えすぎない……」

「はい。
 お客さんが自分で感じる余白を残す」

 その言葉が結の中に静かに落ちた。

 翌朝。

 朝食は、焼き魚と味噌汁、炊きたてのご飯。

 特別なことは何もない。

 だが、いとは食べ終えたあと深く息を吐いた。

「……今日もいい噺ができそう」

 それは、料理人にとって最高の褒め言葉だった。

 チェックアウト時。

「また、静かな時に来ます」

 いとはそう言って最後にこう付け加えた。

「今日の料理ちゃんと“あとを引く”味でした」

 去ったあと厨房で結がぽつりと言う。

「……すごい人でしたね」

 奏は包丁を研ぎながら答えた。

「本物だな」

 それだけ。

 だが、その声は少しだけ弾んでいた。

 噺の“間”と料理の火加減。

 その夜のソラス・フォレストには、
 静かで、心地いい余韻が残っていた。

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