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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に
第111話 調理開始
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包丁を入れる前に、結は一度だけ深く息を吸った。
照明の熱。
カメラの気配。
観客席から届く、抑えたざわめき。
すべてが料理を“見世物”にしようとしている。
(私は……しない)
結は派手なトレーには手を伸ばさなかった。
霜降り。
艶の強いサーロイン。
明らかに「映える」部位。
その横に置かれた、
少し色味の落ち着いた塊。
肩ロース。
筋があり、
扱いを誤れば固くなる部位。
だが――
きちんと向き合えば、
旨味が深く温度を持つ肉。
結はそれを、
迷いなく引き寄せた。
その瞬間近くのブースから小さな声が漏れる。
「……あれ、肩?」
「え、まじで?」
聞こえたが結は顔を上げなかった。
(いい)
(これでいい)
包丁を当てる。
最初の一太刀は、
試すように、浅く。
繊維の向き。
脂の入り方。
表面の張り。
(……いける)
そこで初めて、
結は包丁を入れた。
リズムは早くない。
でも迷いもない。
肩ロースを大きめの塊のまま切り分ける。
細かくはしない。
叩かない。
削がない。
“肉の形”を、
あえて残す。
観客席が、
少しざわつく。
審査員の一人が、
ペンを止めたのが見えた。
(見てる)
結はそれを意識しすぎないように、
手元だけを見る。
隣のブースでは、
すでに派手な音が立っている。
強火。
油の跳ねる音。
肉を叩く音。
別のブースでは、
真空パックに肉を入れ、
低温調理の準備が進んでいる。
(それぞれがきっと正しい)
でも――
(私はこれでいく)
結はフライパンを温め始めた。
火は強くない。
油もほんの少し。
肉を入れる前に、
何も足さない。
塩も、胡椒も、
まだ入れない。
(牛肉そのものにまず聞く)
フライパンに肉を置く。
――ジュッ。
派手ではない、
でも確かな音。
結はその音に耳を澄ませた。
(焼きすぎない)
(閉じ込めない)
(……逃がさない)
肉を動かさない。
色がじわじわと変わっていく。
その様子を見て、
背後から声がした。
「結……落ち着いてるな」
Bグループの誰かだとすぐに分かった。
結は返事をしなかった。
今は言葉を使う余裕がない。
代わりに火をほんの少しだけ落とす。
ここで焦ったら終わる。
フライパンの中で牛肉が“暴れない”温度。
肉が自分から火に慣れていく感覚。
(……あ)
そのとき、
結の中でようやく一つの線がつながった。
(派手にしない理由)
(この肉は――“噛むことを楽しむ”料理に使う肉だ)
舌で溶かすのではなく。
ナイフで切る前提でもなく。
噛んで、じわっと肉汁が広がる。
そこまで考えた瞬間、
初めて次の工程が見えた。
――付け合わせ。
――ソース。
――提供の温度。
全部まだ曖昧だ。
でも。
最初の一手が間違っていないことだけは
確信できた。
結はフライパンから肉を一度外した。
休ませる。
その間にまな板の上に、
次の素材を並べ始める。
その様子を、
審査員の一人が見て、
小さく頷いた。
「……あの子凄い落ち着いてるわね」
誰に向けた言葉でもない、
独り言。
それでも、
結の耳に届いた。
(私はもう急がない)
(でももう止まらない)
包丁を持つ手がわずかに震えた。
怖さではない。
本番に立っている実感が、
ようやく追いついてきたからだ。
(大丈夫)
(私はちゃんと立ってる)
結は次の工程へ進む。
料理はまだ、
形になっていない。
だが――
この皿は、
もう「逃げない」と、
そう思えた。
照明の熱。
カメラの気配。
観客席から届く、抑えたざわめき。
すべてが料理を“見世物”にしようとしている。
(私は……しない)
結は派手なトレーには手を伸ばさなかった。
霜降り。
艶の強いサーロイン。
明らかに「映える」部位。
その横に置かれた、
少し色味の落ち着いた塊。
肩ロース。
筋があり、
扱いを誤れば固くなる部位。
だが――
きちんと向き合えば、
旨味が深く温度を持つ肉。
結はそれを、
迷いなく引き寄せた。
その瞬間近くのブースから小さな声が漏れる。
「……あれ、肩?」
「え、まじで?」
聞こえたが結は顔を上げなかった。
(いい)
(これでいい)
包丁を当てる。
最初の一太刀は、
試すように、浅く。
繊維の向き。
脂の入り方。
表面の張り。
(……いける)
そこで初めて、
結は包丁を入れた。
リズムは早くない。
でも迷いもない。
肩ロースを大きめの塊のまま切り分ける。
細かくはしない。
叩かない。
削がない。
“肉の形”を、
あえて残す。
観客席が、
少しざわつく。
審査員の一人が、
ペンを止めたのが見えた。
(見てる)
結はそれを意識しすぎないように、
手元だけを見る。
隣のブースでは、
すでに派手な音が立っている。
強火。
油の跳ねる音。
肉を叩く音。
別のブースでは、
真空パックに肉を入れ、
低温調理の準備が進んでいる。
(それぞれがきっと正しい)
でも――
(私はこれでいく)
結はフライパンを温め始めた。
火は強くない。
油もほんの少し。
肉を入れる前に、
何も足さない。
塩も、胡椒も、
まだ入れない。
(牛肉そのものにまず聞く)
フライパンに肉を置く。
――ジュッ。
派手ではない、
でも確かな音。
結はその音に耳を澄ませた。
(焼きすぎない)
(閉じ込めない)
(……逃がさない)
肉を動かさない。
色がじわじわと変わっていく。
その様子を見て、
背後から声がした。
「結……落ち着いてるな」
Bグループの誰かだとすぐに分かった。
結は返事をしなかった。
今は言葉を使う余裕がない。
代わりに火をほんの少しだけ落とす。
ここで焦ったら終わる。
フライパンの中で牛肉が“暴れない”温度。
肉が自分から火に慣れていく感覚。
(……あ)
そのとき、
結の中でようやく一つの線がつながった。
(派手にしない理由)
(この肉は――“噛むことを楽しむ”料理に使う肉だ)
舌で溶かすのではなく。
ナイフで切る前提でもなく。
噛んで、じわっと肉汁が広がる。
そこまで考えた瞬間、
初めて次の工程が見えた。
――付け合わせ。
――ソース。
――提供の温度。
全部まだ曖昧だ。
でも。
最初の一手が間違っていないことだけは
確信できた。
結はフライパンから肉を一度外した。
休ませる。
その間にまな板の上に、
次の素材を並べ始める。
その様子を、
審査員の一人が見て、
小さく頷いた。
「……あの子凄い落ち着いてるわね」
誰に向けた言葉でもない、
独り言。
それでも、
結の耳に届いた。
(私はもう急がない)
(でももう止まらない)
包丁を持つ手がわずかに震えた。
怖さではない。
本番に立っている実感が、
ようやく追いついてきたからだ。
(大丈夫)
(私はちゃんと立ってる)
結は次の工程へ進む。
料理はまだ、
形になっていない。
だが――
この皿は、
もう「逃げない」と、
そう思えた。
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