ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第120話 前菜という名の入り口 ~トマトのプリンとバジルのムース~

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 その夜、厨房には結ひとりだった。

 営業が終わり清掃も終わり冷蔵庫のモーター音だけが規則正しく鳴っている。
 包丁もまな板も使わない。
 ただ、ボウルとゴムベラ、計量スプーンと小鍋だけが調理台に並んでいた。

 奏に言われた通り今日は前菜しか考えないと決めていた。

 「トマト……だよね」

 独り言がやけに大きく聞こえる。

 トマトは派手な食材だ。
 色も香りも酸味も主張が強い。
 だからこそ前菜に使うと“やりすぎ”になりやすい。

 結はそれをよく知っていた。

 冷蔵庫から完熟トマトを三つ取り出す。
 皮に張りがあり指で軽く押すと弾くように戻る。

 湯を沸かしヘタを取って十字に切れ目を入れる。
 湯に落とし数秒。
 氷水に取ると皮がするりと剥けた。

 その瞬間立ち上る青い香り。

 結は一度目を閉じた。

(……うん)

 トマトをざく切りにしミキサーへ。
 種ごと回しなめらかなピュレにする。
 ここで濾さない。
 あえてわずかな繊維感を残す。

 鍋に移し弱火。
 塩はひとつまみだけ。
 砂糖は入れない。

 代わりに玉ねぎを極限まで細かく刻みごく少量だけ加える。
 甘味ではなく味に輪郭と丸みを出すため。

 ゆっくり、ゆっくり火を入れる。

 結は鍋から目を離さない。
 煮詰めない。
 煮込まない。
 温めるだけ。

 別のボウルで卵黄と生クリームを合わせる。
 泡立てないようゴムベラで静かに混ぜる。

 そこに、トマトの液体を少しずつ加える。

 温度差で卵が固まらないよう慎重に。
 まるで相手の呼吸に合わせるように。

 (プリン……だけど、甘くない)

 結は小さく息を吐いた。

 型に流し低温のスチームオーブンへ。
 火加減はほとんど「入っていない」と思うくらい。

 その間にバジルのムースを作る。

 摘みたてのバジルをさっと洗い水気を切る。
 氷水に落とし色止め。
 すぐに引き上げペーパーで水分を取る。

 ミキサーにバジル、少量のオリーブオイル、塩。
 そこに温めた牛乳を少し。

 回した瞬間、厨房に一気に香りが広がった。

 青く、若く、どこか懐かしい香り。

 結は一瞬だけ手を止めた。

(……夏だ)

 理由は分からない。
 ただ、そう思った。

 ゼラチンを最小限に溶かし混ぜる。
 生クリームを軽く立て合わせる。

 甘味は入れない。
 代わりにほんの少しだけ白胡椒。

 ムースを絞り袋に入れ冷やす。

 オーブンのタイマーが鳴った。

 結はプリンを取り出しそっと揺らす。

 だが、柔らかすぎない。
 スプーンを入れればすっと割れそうな弾力。

 型から外し皿に置く。

 その時点で結の背中にぞくりとしたものが走った。

(……これ)

 自分でも分かる。
 異様に完成度が高い。

 バジルのムースをプリンの横に小さく絞る。
 量は控えめ。
 主役はあくまでトマト。

 仕上げにエクストラバージンを一滴。
 香り付け程度に。

 スプーンを取りプリンを少しすくう。
 ムースをほんの少しだけ添えて口に入れた。

――静かだった。

 派手な酸味も強い香りもない。
 ただ、口の中で温度がほどけていく。

 最初に来るのはトマトのやさしい酸。
 次に卵とクリームの丸さ。
 遅れてバジルの青さが鼻に抜ける。

 噛む必要はない。
 飲み込む必要もない。

 ただ消える。

「……」

 結はしばらく動けなかった。

(前菜だ)

 はっきりそう思った。

 重くない。
 説明もいらない。
 でもこれから何かが始まる予感だけは確かにある。

 結は椅子に腰を下ろした。

 さっきまであった焦りが嘘のように消えている。
 代わりに、胸の奥に小さな違和感が残っていた。

(……なんで、前菜だけ)

 他の皿はまだ何もできていない。
 スープも魚も肉もデザートも。

 なのにこの一皿だけがまるで最初から答えを知っていたみたいに完成してしまった。

 結は皿を見つめる。

(これでいいの?)

 問いは自分に向けたものだった。

 奏の言葉がふと蘇る。

――前菜は導入だ。

 客の心を開く一皿。

 結はゆっくりと立ち上がった。

 もう一度プリンを作る。
 同じ手順で。
 同じ分量で。

 二皿目も、ほとんど狂いなく仕上がった。

 三皿目も。

 結は確信してしまった。

(これが……私のコースの“入口”だ)

 ここから先はまだ見えない。
 だが、少なくとも物語の一ページ目だけは確かに書けている。

 結は皿を片付けながら小さく笑った。

「……怖いな」

 異様に完成してしまった前菜が、
 この先の四皿にどれだけの覚悟を要求してくるのか。

 それでも。

 結はトマトの香りが残る厨房で静かに前を向いた。
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