ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第119話 フルコースという名の物語

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 営業はすでに終わっている。
 調理台の上には、切り分けられたトマト、殻つきの貝
 皮目を拭った鯛の切り身、真空パックに入った豚肉
 そして数種類のナッツがそれぞれ小さなトレイに並んでいた。

 結はその前に立ち、動けずにいた。

 頭の中には無数のアイデアが渦巻いている。
 だが、どれも「点」でしかない。

 前菜はこう、スープはこう、魚はこうと
 個別に考え始めた瞬間コース全体がばらばらになる感覚があった。
 つなぎ目が見えない。
 流れが見えない。

「……決まらない」

 小さく漏れた言葉は換気扇の低い唸りに吸い込まれていった。

 そのとき背後で足音がした。

 振り向くと奏が静かに入ってきたところだった。
 白いコックコートの袖をまくり手には湯気の立つマグが二つある。

「飲め」

 一つを結の前に置く。
 熱いほうじ茶だった。

 結は礼を言う余裕もなく両手で包むように持った。
 熱がじわりと掌に伝わる。

 奏は結の隣に立ち並べられた食材を一つひとつ見た。

 トマト、貝、鯛、豚肉、ナッツ。

 しばらく、何も言わない。

 結も口を開けなかった。

 やがて奏が静かに言った。

「全部を同時に考えるな」

 結は顔を上げた。

「でも……コースなんだから全部つながってないと」

「つながっていればいいという話じゃない」

 奏はマグを置きトマトに手を伸ばした。
 指先で軽く触れるだけ。
 潰さないように丁寧に。

「コースはただの五皿じゃない。つながる物語だ」

 その言葉に結の胸が小さく鳴った。

 『物語』

 料理では何度も聞いた言葉だ。
 だが、今の結にはその意味がうまく掴めなかった。

 奏は続ける。

「前菜は“導入”だ。
 客の心を開く一皿。
 驚かせる必要はない。
 だが、これから始まる世界の色を静かに示す」

 トマトを軽く転がす。

「スープは“呼吸”だ。
 体に染み渡るもの。
 無理に主張する必要はないが
 ここで客は料理人の技量を知る」

 今度は貝殻に視線を移す。

「魚は“展開”。
 美しさと緊張感が必要だ。
 火入れ一つで台無しになるが
 うまくいけば流れが一気に加速する」

 鯛の皮目に目を細める。

「肉は“クライマックス”。
 重さ、熱、旨味――感情が一番動く皿だ。
 派手でなくていいが決して弱くあってはならない」

 最後にナッツのトレイを見る。

「デザートは“余韻”。
 結論でも、逃げ道でもない。
 客が席を立ったあとも頭の片隅に残るものだ」

 結は言葉を失っていた。

 ただ、胸の奥で何かがゆっくりと動き始めるのを感じていた。

 奏は結を見ずに言う。

「結は今五皿を“作品”として並べようとしている。
 だから苦しいんだ」

「違うんですか……?」

 奏はわずかに首を振った。

「違う。五皿はおまえが語る1つ1つの話の章だ」

 換気扇の音だけがしばらく響いた。

 結はマグを握りしめた。
 熱い。
 だが、その熱が妙に心地よかった。

「……じゃあ、私は何の話をしたいんでしょう」

 結はぽつりと言った。

 奏は少し考えるように間を置いた。

 そして、静かに答えた。

「それを決めるのは俺じゃない」

 結は唇を噛んだ。

 厨房の白い蛍光灯が
 食材を淡く照らしている。
 赤、白、ピンク、淡いベージュ。
 どれも美しい。
 どれも正解の可能性を秘めている。

 奏は続けた。

「だが、ヒントはある」

「ヒント……?」

「おまえはいつも誰のために料理してきた?」

 結は一瞬、言葉に詰まった。

 被災地の炊き出し。
 初めて拾った犬・ぬく。
 ホテルの常連客。
 厨房の仲間。
 そして――目の前にいる奏。

 浮かんだ顔が多すぎて言葉にできなかった。

 奏は結の沈黙を責めなかった。

 代わりに、トマトを一つ手に取り結の前に差し出す。

「これを、誰に食べてほしい?」

 結はそっと受け取った。

 手の中で温もりが伝わる。
 生きている食材の重み。

 結は目を閉じた。

――最初に浮かんだのは震災の日の炊き出しの光景だった。

 湯気。
 冷たい風。
 紙コップを両手で包む人々。

 あのとき、自分はただ「温かいもの」を出したかった。

 それだけだった。

 結は目を開けた。

「……私は」

 声が少し震えた。

「食べた人がほんの一瞬でも安心できる料理が作りたい」

 奏は何も言わない。

 ただ、静かに結を見ていた。

 結は続けた。

「派手じゃなくていい。
 技術を見せたいわけでもない。
 だけど……ただ“おいしい”だけでも足りない気がして」

 奏は小さく頷いた。

「それでいい」

 その一言に結の肩の力が少しだけ抜けた。

 奏は食材に視線を戻す。

「なら、コースのヒントだ」

 トマトに触れる。

「前菜は客が席についたときの緊張をほどく一皿」

 貝に視線を移す。

「スープは心と体に染みる温かさ」

 鯛を示す。

「魚は美しさと静かな緊張」

 豚肉を軽く叩く。

「肉は力強さと満足感」

 ナッツに目をやる。

「デザートは家に帰る道すがらも思い出す味」

 結は息を呑んだ。

 さっきまでバラバラだった五皿が少しだけつながって見えた気がした。

 奏は結に向き直る。

「技術は後からついてくる。まずは、何を語りたいかだ」

 結はトマトをそっとトレイに戻した。

 そして、ゆっくりと息を吐いた。

「……怖いです」

 素直な言葉だった。

 奏はほんのわずかに笑った。

「怖くて当たり前だ。決勝なんだから」

 それでも結の目にはもう先ほどの硬い迷いはなかった。

 代わりに小さな光が宿っていた。

 奏はマグを手に取り一口飲んだ。

「明日からは、まず前菜だけ考えろ」

 結は頷く。

「物語の一ページ目からだ」

 夜の厨房に静かな決意が満ちていた。

 結はトマトをもう一度見つめる。

 赤く瑞々しく確かな存在感。

――ここから始まる。

 自分の物語が。

 五皿の物語が。

 そして料理人としての自分の未来が。

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