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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に
第121話 序章の役割
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深夜の厨房はまだトマトの匂いを含んでいた。
洗い終えた鍋、拭き上げられた調理台、整然と並ぶ型。
それでも、空気の奥には微かな甘酸っぱさが漂っている。
結はひとつだけ皿を残していた。
白磁のプレートの中央に静かに佇む――
トマトのプリンとバジルのムース。
余計な装飾はない。
ソースもない。
皿の余白が料理そのものを支えている。
結はそれを見つめたまま動けずにいた。
(完成してしまった)
その事実が安心ではなく妙な不安を連れてきていた。
時計の針が午前一時を指す直前
コツ、コツ。
廊下から一定の足音が近づいてきた。
結は心臓が跳ねた。
厨房の扉が開く。
「……まだいたのか」
神谷奏だった。
白衣の袖をまくり肩に少しだけ疲れが乗っている。
それでも、視線は鋭く厨房の空気を一瞬で読むように巡った。
「前菜できたんです」
結は声が少しだけ上ずった。
奏は何も言わず調理台に近づく。
皿を一瞥し――動きを止めた。
ほんの一瞬だけ。
その沈黙が結にはやけに長く感じられた。
奏は静かにスプーンを取った。
プリンの縁にそっと入れすくう。
ムースをほんの少しだけ添えて口へ運ぶ。
結は息を止めた。
スプーンが口に消える。
奏の喉がわずかに動く。
数秒。
ただそれだけの時間が結には永遠のように思えた。
奏はスプーンを皿に戻した。
表情は変わらない。
眉も動かない。
目も細めない。
結の胸に冷たいものが落ちた。
(……ダメだった?)
沈黙が容赦なく伸びる。
結は耐えきれず口を開いた。
「あの」
その瞬間奏が視線を上げた。
「いい」
一言だけ。
短く乾いた声。
だがその声には確かな手応えがあった。
結は思わず瞬きをした。
「……それだけ、ですか?」
奏は皿をもう一度見下ろす。
「前菜として、正しい」
飾らない言い方だった。
結は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
奏は続けない。
評価も解説も助言もない。
だが……
彼は皿を少しだけ角度を変えて見た。
それは無意識の癖だ。
気に入った皿を見るときのわずかな動き。
結はそれを知っていた。
奏はふと静かに言った。
「ただ」
結の背筋が伸びる。
「この前菜は結に“続きを書け”って言ってる」
結は言葉の意味を噛みしめた。
前菜は完成している。
だが、コースは完結してはいない。
この一皿は始まりでしかない。
奏は手を拭きながら淡々と続ける。
「スープが弱ければこの皿が浮く。
魚が甘ければこの皿が嘘になる。
肉が重ければこの皿が潰れる」
結は静かに息を吸った。
「それは……分かってます」
奏は小さく頷いた。
そして、皿にもう一度だけ視線を落とす。
「でも――」
一拍。
「序章は間違ってないと思う」
結の胸に音もなく何かが満ちた。
嬉しさとも安心とも違う。
だが、確かに前へ進める感覚。
奏はそれ以上何も言わなかった。
皿を元の位置に戻し手を洗う。
水音だけが深夜の厨房に響く。
去り際――
奏はふと足を止め背中越しに言った。
「今日はもう寝なさい」
それだけ。
結は小さく笑った。
「……眠れないかもしれません」
奏は振り向かないまま短く答える。
「それでもベットで目は閉じなさい
おやすみ」
扉が静かに閉まる。
結はひとり残された厨房で前菜の皿を見つめた。
(序章は間違ってない)
その言葉が何度も胸の中で反響する。
トマトの赤。
バジルの緑。
白い皿の余白。
結はゆっくりと深呼吸した。
次は――貝のスープ。
まだ形はない。
不安もある。
それでも。
結は確かに一歩を踏み出していた。
洗い終えた鍋、拭き上げられた調理台、整然と並ぶ型。
それでも、空気の奥には微かな甘酸っぱさが漂っている。
結はひとつだけ皿を残していた。
白磁のプレートの中央に静かに佇む――
トマトのプリンとバジルのムース。
余計な装飾はない。
ソースもない。
皿の余白が料理そのものを支えている。
結はそれを見つめたまま動けずにいた。
(完成してしまった)
その事実が安心ではなく妙な不安を連れてきていた。
時計の針が午前一時を指す直前
コツ、コツ。
廊下から一定の足音が近づいてきた。
結は心臓が跳ねた。
厨房の扉が開く。
「……まだいたのか」
神谷奏だった。
白衣の袖をまくり肩に少しだけ疲れが乗っている。
それでも、視線は鋭く厨房の空気を一瞬で読むように巡った。
「前菜できたんです」
結は声が少しだけ上ずった。
奏は何も言わず調理台に近づく。
皿を一瞥し――動きを止めた。
ほんの一瞬だけ。
その沈黙が結にはやけに長く感じられた。
奏は静かにスプーンを取った。
プリンの縁にそっと入れすくう。
ムースをほんの少しだけ添えて口へ運ぶ。
結は息を止めた。
スプーンが口に消える。
奏の喉がわずかに動く。
数秒。
ただそれだけの時間が結には永遠のように思えた。
奏はスプーンを皿に戻した。
表情は変わらない。
眉も動かない。
目も細めない。
結の胸に冷たいものが落ちた。
(……ダメだった?)
沈黙が容赦なく伸びる。
結は耐えきれず口を開いた。
「あの」
その瞬間奏が視線を上げた。
「いい」
一言だけ。
短く乾いた声。
だがその声には確かな手応えがあった。
結は思わず瞬きをした。
「……それだけ、ですか?」
奏は皿をもう一度見下ろす。
「前菜として、正しい」
飾らない言い方だった。
結は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
奏は続けない。
評価も解説も助言もない。
だが……
彼は皿を少しだけ角度を変えて見た。
それは無意識の癖だ。
気に入った皿を見るときのわずかな動き。
結はそれを知っていた。
奏はふと静かに言った。
「ただ」
結の背筋が伸びる。
「この前菜は結に“続きを書け”って言ってる」
結は言葉の意味を噛みしめた。
前菜は完成している。
だが、コースは完結してはいない。
この一皿は始まりでしかない。
奏は手を拭きながら淡々と続ける。
「スープが弱ければこの皿が浮く。
魚が甘ければこの皿が嘘になる。
肉が重ければこの皿が潰れる」
結は静かに息を吸った。
「それは……分かってます」
奏は小さく頷いた。
そして、皿にもう一度だけ視線を落とす。
「でも――」
一拍。
「序章は間違ってないと思う」
結の胸に音もなく何かが満ちた。
嬉しさとも安心とも違う。
だが、確かに前へ進める感覚。
奏はそれ以上何も言わなかった。
皿を元の位置に戻し手を洗う。
水音だけが深夜の厨房に響く。
去り際――
奏はふと足を止め背中越しに言った。
「今日はもう寝なさい」
それだけ。
結は小さく笑った。
「……眠れないかもしれません」
奏は振り向かないまま短く答える。
「それでもベットで目は閉じなさい
おやすみ」
扉が静かに閉まる。
結はひとり残された厨房で前菜の皿を見つめた。
(序章は間違ってない)
その言葉が何度も胸の中で反響する。
トマトの赤。
バジルの緑。
白い皿の余白。
結はゆっくりと深呼吸した。
次は――貝のスープ。
まだ形はない。
不安もある。
それでも。
結は確かに一歩を踏み出していた。
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