ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第122話 スープの試作

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 まだ夜が深く世界が息をひそめている時間だった。

 ソラス・フォレストの厨房はいつもよりも広く感じられた。
 天井の照明は最低限に落とされステンレスの作業台が鈍く光っている。
 換気扇は止まり空調も静かだ。
 わずかな冷気が足元を這う。

 結はひとり調理台の前に立っていた。

 白いボウルの中で貝が静かに呼吸している。

 砂抜きされたアサリ。
 殻の表面には微細な模様があり指先で触れるとわずかに冷たい。
 水に浸かった貝はときおり小さく口を開き泡を吐くように水面を揺らした。

 結は手首を返しそっと水を切る。
 ザルに移した瞬間、貝同士が触れ合い
 乾いた小さな音を立てた。

「……」

 何も言わない。
 何も言う必要がなかった。

 鍋を火にかける。
 厚手のステンレス鍋。
 底に少量のオリーブオイルを垂らし弱火で温める。

 油が静かに広がり鍋肌に薄い膜をつくる。

 結はにんにくを一片包丁の腹で軽く潰した。
 皮ごと鍋に落とす。

 ジュと小さく音が立ち香りがふわりと立ち上る。
 強く主張する匂いではない夜に溶けるような
 やさしい香ばしさ。

 次に白ネギの青い部分を細く切り鍋に落とした。
 油がネギの水分を受け止め静かに泡立つ。

 結はそこで一度火を止めた。

 深呼吸。

(焦らない。焦らない)

 鍋にアサリを入れる。
 瞬間、殻同士がぶつかり低く重なった音が響く。

 白ワインをひと回し。

 鍋に注がれた液体が蒸気に変わる。
 ふわりと立ち上るアルコールの匂いが
 にんにくとネギの香りに混ざる。

 結はすぐに蓋をした。

 静寂。

 しかし、その静けさの内側で確かに何かが動いている。

 コンロの火は極弱。
 鍋の中で貝が少しずつ目を覚ます。

やがて――

「……カチ、カチ」

 小さな音。
 最初の殻が開く気配。

 結は鍋に耳を近づけた。
 蒸気がわずかに蓋の縁から漏れ頬に触れる。

 甘く海の匂いがする。

 二つ目、三つ目と、殻が開く音が重なっていく。
 まるで貝が互いに合図を送り合っているかのように。

 結はタイミングを待った。

 すべてが開ききる直前。
 それが、出汁を取る上での境界線。

 蓋を開ける。

 白い蒸気が一気に立ち上る。
 鍋の中には開いたアサリと乳白色に近い透明なスープ。

 結はトングで貝を取り出し別のボウルに移した。
 身はまだふっくらとしている。
 決して縮んでいない。

 鍋に残った液体を静かに濾す。

 目の細かいシノワにキッチンペーパーを重ねて敷く。
 そこへゆっくりと出汁を注ぐ。

 ポタ、ポタと落ちる音だけが響く。

 濾された出汁は澄んでいた。
 ほとんど無色に近いのに
 底には確かな“海”が沈んでいる。

 結は小さなスプーンでひと口だけすくった。

唇に触れた瞬間――

 塩気は強くない。
 それでも、舌の奥に貝の旨味が静かに広がった。

(……きれいすぎる)

 結はわずかに眉を寄せた。

 美しい出汁。
 雑味がなく澄み渡っている。

だが――それだけだった。

 前菜のトマトプリンとバジルムースは
 すでに物語を語り始めている。
 このスープがただ「美味しいだけ」では物語は続かない。

 結は鍋を洗いもう一度火にかけた。

 今度は別のアプローチ。

 バターを少量。
 玉ねぎを極薄にスライスし
 色づかせないようにゆっくりと汗をかかせる。

 甘い匂いが静かに立つ。

 そこへ再びアサリを投入。
 今度は白ワインではなく水を少量。

 蓋をして待つ。

 結は時計を見ない。
 時間ではなく音で判断する。

 やがて殻が開き始める。

 蓋を開け出汁を濾す。

 ひと口。

 先ほどよりわずかに丸い。
 だがまだ何かが足りない。

 結は唇を結んだ。

(奏さんなら、ここで何を足す?)

 思い浮かぶのは昨夜の一言。

――「序章は間違ってない」

 結はもう一度貝を見た。

 ボウルに残るアサリ。
 まだ使っていない身がある。

 結はそのうちの数個を取り出し殻から外した。
 包丁で細かく刻み鍋に戻す。

 弱火で軽く煮る。

 濾さずに今度はそのまま味を見る。

 貝の風味がぐっと前に出た。
 だが少しだけ荒い。

 結はそこへほんの一滴だけレモンの皮を擦り入れた。
 香りがかすかに立つ。

 ひと口。

 結の肩がほんの少しだけ落ちた。

(……近い)

 完璧ではない。
 それでも確かに“次”が見えた。

 東の空がわずかに白み始める。

 厨房の窓の向こう森の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
 鳥の鳴き声が遠くで一つだけ響いた。

 結は作業台に手をついた。

 指先に冷たい金属の感触。

 前菜の皿が静かにそこにある。
 赤と緑が夜明けの光をわずかに受けていた。

 結は小さく息を吸った。

 貝のスープはまだ完成していない。
 だが――
 もう迷ってはいなかった。

 鍋を火から下ろし静かに蓋をした。

「コースの……続きを書こう」

 誰に聞かせるでもなく結は小さくつぶやいた。
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