ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第123話 スープの完成 ~アサリとイカ墨の黒のボンゴレスープ~

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 朝と夜のあいだにはまだ名前のない時間があった。

 結は鍋の前に立っていた。

 昨夜――
 いや、つい数時間前に取ったアサリの出汁が静かにそこにある。
 澄んだ液体。
 濁りはなく雑味もない。
 匂いはやさしく口に含めば海の記憶が広がる。

 それでも足りなかった。

 結は小さく息を吐き前菜の皿に目をやった。

 トマトのプリンとバジルのムース。
 鮮烈な赤と緑。
 軽やかでどこまでも明るい入口。

――物語はここから始まっている。

 スープはその続きでなければならない。

 結は出汁を小鍋に移し替え弱火にかけた。
 湯気はほとんど立たない。
 表面がかすかに揺れるだけ。

 木べらでゆっくりと混ぜる。

(きれいすぎる)

 その言葉が胸の奥で何度も反響した。

 結はふと視線を作業台の端へ向けた。

 そこに小さなガラス容器があった。
 『黒い粘度のある液体。』

――イカスミ。

 試作用に取り寄せてあったものだが
 これまで一度も触れていない。
 結にとってイカスミは“強すぎる色”だった。
 料理を塗りつぶしてしまうような気がしてどこか距離を置いていた。

 結は容器を手に取った。

 ガラス越しに見る黒は光を吸い込むように深い。
 ただの色ではない。
 重さがあった。
 記憶の底に沈んだ闇のようでもあった。

――奏の声が頭の中でよみがえる。

『コースは物語だ』

 結は小さく容器の蓋を開けた。

 潮の匂いがわずかに立つ。
 鉄のような香りと海の苦味が混じった匂い。

 結はスプーンの先にほんの一滴だけイカスミを取った。

 躊躇はなかった。

 その一滴を温めたアサリの出汁に落とす。

 黒が白に触れた瞬間――

 ふわりと広がった。

 墨は渦を巻きやがてスープ全体へと静かに溶けていく。
 澄んでいた出汁はゆっくりと色を変え深い黒へと沈んだ。

 結は木べらで静かに混ぜた。

 色が均一になるにつれ空気が変わった。

 軽やかだった香りに芯が通る。
 甘さの裏にわずかな苦味が立ち上がる。
 海はただ穏やかなだけではなく深さを持ち始めた。

 結は小さなスプーンですくい口に運んだ。

 舌に触れた瞬間――

 アサリの旨味がまず静かに広がる。
 そのすぐ後にイカスミのコクが重なり味に奥行きを与える。

 軽やかさは失われていない。
 だが、そこに“影”が生まれた。

 光だけではない。
 闇も含んだ海の味。

 結の呼吸がほんのわずかに変わった。

(物語が続いてる)

 前菜の明るさに対する静かな対比。
 色も、味も、明確に次の章へ進んでいる。

 結はさらにもう一滴だけイカスミを足した。

 混ぜる。
 味を見る。

 今度は完璧だった。

 派手ではない。
 だが、確かに人の心に残る黒。

 結は鍋の火を止めた。

 窓の外では夜の闇がようやく白にほどけ始めている。
 森の輪郭がくっきりと現れ鳥の声が重なった。

 結は完成したスープを小さなカップに注いだ。

 黒い液面は朝の薄い光を受けてかすかに艶を帯びる。

 結はそのカップを前菜の皿の横に置いた。

 赤、緑、そして黒。

 三つの色が静かに並ぶ。

 結は息を整えそっと呟いた。

「――アサリとイカ墨の黒のボンゴレスープ」

 名前が自然に口をついて出た。

 それは単なる料理名ではなかった。
 物語の章題だった。

 結は鍋を洗いながらふと小さく笑った。

 恐れは消えていない。
 決勝はまだ遠い。

それでも――

 スープは確かに語り始めていた。
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