ホテル「ソラスフォレスト」と季節の人々 ~44歳男性コックと25歳女性コックの不器用関係と不思議なスタッフと~

物書き赤べこ

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第2章 季節の変わり目は複雑な天気に

第150話 心のこもったプレゼント

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 その誘いは前触れなく来た。

 「今日の仕事は終わりだよね」
 「千夏ちゃん、空いてる?」

 結がそう言ったとき千夏は一瞬言葉を失った。

 「え、はい……」
 「じゃあ、奏さんも一緒に」

 奏は少しだけ驚いた顔をしてから頷いた。

 「いくの久しぶりだな」
 「あのお店ですね」
 「そうだ」

 夕方の街を三人で歩く。

 千夏は少し後ろを歩いていた。
 二人の会話に入るでもなく離れるでもなく。

 その距離が今の自分の立ち位置だと分かっていた。

 「Trattoria R」は派手さのない店だった。

 看板も小さく照明も控えめ。
 だが、扉を開けた瞬間空気が変わる。

 ――あ、厨房の匂いだ。

 千夏は直感的にそう思った。

 席につくと奏は短く挨拶した。

 「……変わらないな」
 「お前が年を取っただけだ」

 カウンターの奥から低い声が返る。

 奏の師匠だった。

 料理はどれも派手ではない。

 だが一口ごとに理由がある。

 ソースは主張しすぎず
 火入れは正確で
 皿が静かに完結している。

 千夏は食べながら思った。

 ――これだ。

 誰かを驚かせるためじゃない。
 評価を取るためでもない。

 「どこまでも続けていく料理」だ。

 「どうだ!!美味いか?」

 師匠が千夏に聞いた。

 「……すごく美味しくて落ち着きます」
 「そうか、それは良かった」

 それだけで十分だったようだ。

 帰り道。

 奏は結と視線を交わす。

 「……行くか」
 「うん」
 「どこに行くんですか?」
 「気にしないで付いてきて」

 千夏はついて行くしかなかった。

 入ったのは古い包丁屋だった。

 木の匂い。
 金属の静けさ。

 「え……?」

 千夏が戸惑う。

 奏が棚から一本を取った。

 ペティナイフ。
 軽くて素直な刃。

 「これどう思う?」
 「……私にですか?」

 「そう」

 奏は短く言った。

 「最初の一本はな」
 「自分で買わない方がいい」
 「俺と結からのプレゼントだ」

 千夏は息をのんだ。

 結がそっと付け足す。

 「これは」
 「“期待”じゃないの」
 「“調理場での許可”ってところかな」
 「許可…私に…」

 千夏は包丁を受け取った。

 思ったより軽い。

 でも手が震えた。

 「……大事にします」
 「当たり前だ」

 奏はそう言って背を向ける。

 でも、その声は少しだけ柔らかかった。

 帰り道。

 千夏は包丁の箱を胸に抱いて歩いた。

 きっとまだ使いこなせない。
 これからもまだまだ迷う。

 それでも。

 自分はもう“始めていい場所”にいる。

 そのことだけははっきり分かった。

 結は少し後ろからその背中を見ていた。

 奏がぽつりと言う。

 「……昔」
 「俺も師匠から同じのをもらった」

 結は何も聞かなかった。

 それが今夜の正解だと分かっていたから。

 街灯の下。

 刃はまだ鞘の中。

 だが確かに――
 未来へ向けて渡された。
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