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チケット

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 空港の指定された場所で待っていると、見なれた姿が向こうから近寄ってきた。
 モノトーンでおしゃれに決めた背の高い、黒髪の――

「悠兄ちゃん!?」

 駆け寄ろうとして、私はためらった。
 隣に背の高い女性が寄り添うようにして歩いている。
 つばの大きい帽子にサングラス。体にぴったりとした艶やかな花柄モチーフのワンピース。一見してセレブなお姉さんに見える彼女は、女性にしては背が高い。
 だからはじめは、キースさんかと思った。
 でも、ワンピースの下に浮き出る体のラインは明らかに女性で――
 私は、自分の見たものを否定したかった。
 時間を巻き戻して、成田空港に来ない選択をしたくなった。
 そうできないならばせめて、この場を立ち去ろうかと彼らに背を向けたところで、悠兄ちゃんに声をかけられた。

「綾」
「お久しぶり、綾菜さん」

 ついでに、隣にいたマリアさんにもこんな風に挨拶されたら、知らないふりをするわけにもいかない。

「お久しぶりです、マリアさん。その節は――」
「いいのよ。気にしないで。みんな無事だったんだし、ね」

 マリアさんは明るく笑ったけれど、"みんな"が無事だったわけではない。小さな命が一つ、亡くなった。
 だけど、本人がそれについて何も言わないのに、私から切り出すのも悪い気がして、私は何も言えない。
 だから、なんとなく気まずい雰囲気が流れそうになった時に、悠兄ちゃんが「どうして、綾がここに?」と聞いてくれてよかった。

「ん、と、キースさんに呼び出されて」

 そうしたら、悠兄ちゃんは複雑な表情をした。
 呼び出されて荷物を持って成田空港にいるってことは、キースさんと二人で旅行に行くと思われるのが普通か。
 でも、私だって、呼び出されただけで、何も分かっていないので、それ以上は説明も言い訳もできない。

「……悠兄ちゃんこそ、どうして?」
「マリアが仕事でバリに行くって言うから見送り」

 付き添うように――。キースさんの先日の言葉がいま目の前に現実となっていた。
 なまじ事情が分かっているだけに、「いいですね」とか「頑張ってください」とか無難なセリフも口に出せない。
 そこへ、キースさんが、いつものように手にカメラを持って現れてくれたから、助かった。
「あらー、みんな早いのね」との明るい口調に、場が一気に華やかになる。

「ところで、パスポート持ってきた?」
「空港の検問通るのに必要だって言うから持って来たけど――、よく考えたら、見送りなら、パスポートなんていらねぇじゃん」
「真面目ねー」

 よしよしと、キースさんが僅かに不服を露わにした悠兄ちゃんの頭をなでた。
 忌々しげにその手を振り払う悠兄ちゃんは、そうしてキースさんとじゃれていると、元気がないようには見えない。
 ま、キースさんの前で落ち込んでられないという気持ちも、分からないでもないけど。

「じゃ、これ」

 キースさんから差し出された小さな封筒を、マリアさんは何も言わずに受け取った。
 その次に、同じものが、私と悠兄ちゃんの目の前にも。

「これ――?」
「Eチケットの控えよ。持ってきたパスポートで、搭乗手続きしてね」
「……どういうことだか――」
「責任とってくれるんでしょ。あ、あと、ホテルはここね。タクシーに乗ってメモ見せれば分かるようになってるわ。ユウヤの特訓、頼んだわよ。帰国後にいい写真が撮れるかどうかは、貴女にかかってるんだからね」

 一緒に入っていた紙を指差しながら、キースさんがてきぱきと指示する。
 特訓。
 私は、Eチケットと折りたたんだ紙を見た。
 責任を取るって、水恐怖症の克服のための特訓という意味だったのだろうか。
 あの時、人魚姫の話なんて持ち出されて、ロマンチックな方向に行きかけた割には、実際はこういうことだったのか、と知ってちょっと気が抜けた。
 最初から、悠兄ちゃんの水恐怖症を克服するのが目的で、この間私にあんなことを言ったのだろう。マリアさんの仕事にかこつけて、一緒にバリに行き、そこで、特訓しろと、そういうことか。
 そうであるなら、私に断る理由はない。
 ていうか、こんなことなら最初からそう言ってくれればいいのに。
 キースさんは、素直にそれらを受け取った私に満足げに頷いて、悠兄ちゃんに向き直った。
 悠兄ちゃんだけは、未だ自体が呑みこめていないようだ。

「おい、どういうことだか――?」
「三流ゴシップカメラマンみたいなコトしたくなかったけどね、サイコーのユウヤを撮るためなら、アタシ、何だってやるわよ。だから、ユウヤも、死ぬ気でアクアフォビアを治してきて」

 ひらひらと手を振るところを見ると、キースさんは同行しないのだろうか。

「アタシは、残念ながら、まだ日本で仕事が残ってるのよ。……ああ、忘れるところだったわ。ユウヤ、アタシへのお土産は、ガムランの鉄琴みたいなやつでいいから」
「土産って言うなら、餞別を出すのが普通だろ」
「センベツ? ――日本語、よくわからないけど、今、手持ちがこれしかないの」

 キースさんが悠兄ちゃんに渡したのは、ジーンズの後ろのポケットに無造作に突っ込まれてしわしわになっていたスポーツ新聞だ。

「日本語ぺらぺらの癖に、こういうときだけ、外国人ぶるな」
「いいじゃないの。暇つぶしに、どうぞ。――チャオ!」

 茶目っ気たっぷりに手を振って、キースさんは逃げるように去って行く。
 取り残された私たちは、顔を見合わせて、クスッと笑いあった。
 やっぱり、キースさんは、(いい人と言う意味で)素敵な人だ。
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