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扉の向うへ
しおりを挟む咄嗟に夕実は逃げた。
追って来る男の方をせわしく振返る。
まだ、距離はあった。
大丈夫。金槌で肩と足を殴りつけ、手応えだってあったんだ。あいつが、あたしに追いつけるわけ無いっ!
そう思ってみたものの、何かと見通しが甘い夕実は、己の捻挫を考慮に入れていない。痛みをこらえ、青息吐息で残りの段を上り切り、樫の扉へ手を賭ける。
真鍮の鍵で外へ出て、逆にあいつを閉じ込めてしまえば……
鍵を差し込み、ほっとしたのも束の間、ドア手前の狭い踊り場は床板が特に傷んでいたらしい。メキッという音が足元から聞こえ、陥没した板に足首を取られて、勢いよく前へつんのめる。
あ、立てない!?
割れ目から足が抜けず、痛みに呻く内、迫る男の息遣いが聞こえた。振向くと、尖った火掻き棒の先端が裸電球の下で長い影を引く。
「このまま、お前を殺し、典江と一緒に山小屋ごと焼いちまう。それで概ねプラン通り。僕は狂った女房と愛人の殺し合いに巻き込まれ、一人残った哀れな夫……笑い者にされるだろうが、まぁ、我慢できるよ。ほとぼりが冷めた後、遺産と保険金で存分に趣味を追及できるからね」
優しい声音と満面の笑みが、恐ろしく不気味に思えた。容赦無く典江の顔を潰した時と同様、垂直に火かき棒が振り上げられていく。
全身を竦ませ、両手で顔を覆った夕実は、致命的な一撃がささやかな夢と未来を決定的に打ち砕く瞬間を待った。
だが、その代り、すっと風が動く。
階下のテーブルで体を起こし、そっとビニールシートから這い出して、肉迫する影が正孝の背中へ張り付いた途端……
冷笑を浮かべていた口が一転、声にならない悲鳴を上げた。
見開く夕実の目に映ったのは、揺れる裸電球の下、膨らみ、縮み、不安定な変形を繰返す二つの影だ。
女のゾンビが男の首を噛んでいる。
青白い亡者のメイクと、額の丸い傷……その唇から、ちゅうちゅうと生き血を啜る音がする。
典江が目をさまし、正孝に復讐していると夕実は思った。でも、その横顔に怒りは浮かんでいない。
三度、火かき棒で殴打された顔面の陥没や半ば潰れた眼球が眼窩からこぼれ、神経の束だけでぶら下がる様は凄惨そのものだが、表情は実に楽し気だ。
むしろ、母の乳首に夢中の幼児に似た無邪気な喜びさえ伝わってきて、映画に出てくる怪物より余程純粋な魔性を感じた。
只の狂女だなんて、どうしても思えない。
夕実が彼女の胸に触れた時、確かに弱い鼓動を感じたけれど、正孝の殴打で止めを刺された筈だ。
あれを生き延びるなんて……それに、もし生きていたら、殴られた時、指先くらい反応するだろうに典江さんはピクリとも……
つい先程、出鱈目だと断言した筈なのに、正孝の企みだと決めつけた筈なのに……祭壇の禁呪、生ける亡者の存在をその瞬間、夕実は理屈抜きに信じてしまっている。
一方、高く噴き出す血飛沫で周囲を染めながら、正孝はもがき続けた。チュウ、チュウと吸い付く唇の音に、その内、ピーッと甲高い音色が混ざって聞こえる。
頸動脈が切れるとな、呼吸の度、気管を抜け損ねた空気が笛の音を出すんだぜ。
何時だったか、ディナーの真っ最中にそんな話で夕実の食欲を奪った正孝が、自分の身体で今、それを証明してくれている。
「夕実……た、助け、て……」
弱々しく伸ばす指先が虚しく宙を掻き、尚も声を上げようとする男の唇を妻の優しいキスが塞いだ。
笛に似た音が弱まり、代りに何かちぎれる音が続く。
典江がキスを止め、口一杯に頬張った肉を呑み込む間、もう涙を湛えた目の動きでしか救いを求められない正孝の顔を、夕実は直視してしまった。
鼻の下にぽっかり穴が開き、その下は腰の辺りまで真っ黒……夥しい量の黒い塗料で塗り潰されてしまったようだ。
その「黒」が、唇と舌を喰われて迸る血潮から、揺れる裸電球の逆光が赤い色を奪った結果である事、夕実は否応なく理解した。
だが、これは本当に現実なのだろうか?
凍り付いた時の流れの中で一人だけ蠢き、背後から夫の動きをリードする典江は全く離れようとしない。
死にゆく体を抱き寄せ、愛おし気に頸動脈の切断面を舐め、しゃぶり……
ちぎれた肉片を丹念に噛んで咀嚼する度、もろともにゆらゆら揺れる姿は、まるで長年添い遂げた夫婦の仲睦まじきワルツのようにも見える。
遂に力尽きた正孝が階段下まで転げ落ちた時、我に返った夕実は床板の割れ目から何とか足首を引き抜き、ついでに金槌も拾い上げた。
意味も無く、それをブンブン振り回して樫の扉を潜り抜け、真鍮の鍵を掛ける。自然と安堵の溜息が漏れ、その場にへたり込んだ。
あぁ、助かった。もう、これで安心よね?
閉じたドアに背中を預け、脱出の達成感とささやかな静寂の一時を夕実は噛み締める。だが、間も無く不快な摩擦音が聞こえた。
誰か、扉を爪で掻いている。
カリカリ、カリカリ……
爪の音は絶え間ないリズムで続き、夕実は両耳を押えて、廊下の壁へ凭れながら山小屋の居間へ逃げた。
それから、どれくらい時間が経ったのだろう?
顔を上げると、もう朝だ。
窓から差す淡い陽光が、居間に設けられた四つの塔、ブードゥーの祭壇を照らし出す。
髑髏の顔をした人形が、おいで、おいで、と夕実を招き、真っ赤な呪文の文字が炎の如く輝き出して、只ならぬ気配を漂わせている。
あぁ、生臭い。
真夜中に見た時より、呪文の文字が増え、増殖したカビみたいにびっしり壁を埋め尽くした気がするけれど……
そんな筈ない。気のせいよね。
必死で自分に言い聞かす間にも、外で彷徨う、幾つかの人影が見えた。ゆらゆら覚束ない足取りで首から血塗れの肉片が垂れている。
あのメイク、妙にリアル。
夜は明けたのに、イベントはもう終わった筈なのに、プレーヤーの誰かが、まだ悪ふざけを続けているの?
笑い飛ばそうとし、夕実の独り言は途中で凍り付いた。
でもさ、もし……もしも、本当に典江さんの呪いが実在するとしたら、あれ……
理不尽な迷いが募り、どうしても外の人影へ声を掛ける勇気が出ない。
助けを呼ぼうとスマホを取り出してみるが、バッテリー切れだ。先程、正孝を引き付ける為に典江のスマホへ掛け続けた時、電池を使い切ったのだろう。
あ~、もう、あたしのバカ! こうなる前に助けを呼ぶチャンスはあったのに。
後悔しても遅い。と言うより、身から出た錆だ。
典江への傷害容疑で逮捕される事を恐れた為、夕実は通報をためらい、先延ばしにしていた。そもそも、正孝が彼女からスマホを取り上げなかったのは、そんな性分を見抜いたからに違いない。
ここまで来て、まだ、あたしの足を引っ張るの、クズ!
ドアの向う側へ罵る声を張り上げ、辺りを見回してみても、山小屋に据え置きの電話など無い。
使えるのは樫の扉の向うにある典江のスマホだけ。
思い切って扉を開き、先手を取って典江を殴り倒す事ができたら、何とかそれを奪えるかもしれない。
外でうろつく奴らの中、挫いた足で麓まで駆け抜けるなんて、夕実は絶対に嫌だった。
本物のゾンビなんて、いない。
そうよね? 絶対にいる筈が無いっ!
いくら思い込もうとしても、想像するだけで足が震えてくる。だったらまだ、典江一人を相手にする方がマシだ。
さっきも、あたし、一度失神させてるんだし……
扉の物音は一層大きくなっていた。
典江は今、正孝の火掻き棒を使い、力任せに扉を叩いている。
古い蝶番がひどく軋んでおり、このまま行くと年代物の古い扉など、遠からず破られてしまうだろう。
夕実は両耳を押えたまま、窓越しの朝焼けを見やり、呟いた。
あたし、どっちが怖いのかな?
リアルな殺人に巻き込まれ、妻の復讐に晒される愛人の立場と、リアルな怪物に襲われて餌食になるホラー・ヒロインの立場。
選択の余地は彼女に無く、どの道、もうすぐ真実は明らかになる。
夕実は足首の痛みを堪えて立ち上がり、金槌を強く握り直した。
目指す先は、地下室に続く扉の向うだ。
ずっと成行きのまま、流される生き方をしてきたけれど、もしこれが最後なら……しょ~もなかった生涯の最期に下す決断になるなら、絶対に流されたくない。
せめて、一度くらい自分の意志で運命を動かしたいと、心から思う。思わずにいられない。だって、今度こそまともな恋をすると心に決めたばかりなのだ。
典江さん、あたし、只じゃ死なないよ。
精一杯の強がりを胸に、夕実は震える指で暗い闇への扉を開いた。
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