俺達の百鬼夜行 堕ちればきっと楽になる

ちみあくた

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ずっと、あなたが好きだった

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 ぼやけていた昨夜の記憶。

 屋上への鉄の扉に力無くもたれる聡の胸の奥で、蘇り、膨れ上がっていく嫉妬、苛立ち、憎しみなど、全てのドス黒い感情が牙を剥く暗い想い出……
 
 
 
 
 
 あの時、あの飲み屋の小さな貸し切りの座敷で、木崎は聡が土下座するまで罵倒し、その頭を足で踏み躙った。
 
「珍しく女子社員に頼りにされて、良い気になってたんだよなぁ、お前」

「木崎さん、俺はただ……」

「ただ、何よ? 一応、取締役だから職場を代表して俺に抗議? 身の程知らずにも程が有るわ」

 傍らに立つ舞子は何も言わなかった。

 香は顔を背け、醜いパワハラへの不快感を露わにしている。
 
 踏みつける足に一層力が籠り、思わず呻き声を上げる聡へ向け、平社員がいきなり取締役へ抜擢された真の意味を、楽しそうに木崎は語った。

 会社の経費節減だ。
 
 いい加減すり切れて、そろそろお払い箱にしたい下っ端を役付けにし、残業手当無しで徹底的にこき使う。
 
 そして、自分から辞めると言い出した時、一切、退職金を支払わないと宣言するのだ。
 
 退職金の規定は労働基準法に明記されておらず、その定めの無い会社に請求する際は給与の一部として求める事になるが、役付けとなると労基法の対象外で、交渉のハードルがやたら高くなる。
 
 大抵、泣き寝入りせざるを得ない。
 
 ついでに業界へ悪い噂を流し、何処でも働けなくなると脅されたら、上司に逆らえる筈など無い。
 
「生きててゴメンなさい……生きててゴメンなさい……生きててゴメンなさい」

 クビになりたくない一心でプライドをかなぐり捨て、そう泣き喚いて、上司にすがるしか道は無いのだ。
 
「こいつの母ちゃんさぁ、その辺の事情を知りもしねぇで、取締役の話を聞いた途端、せっせと赤飯炊いたんだと。なぁ、コレって笑えると思わねぇ?」

 木崎が皆の前でうそぶき、土下座している聡を蹴飛ばした途端、何かが壊れた。
 
 取り返しのつかない大事な何かが、胸の奥で確かに砕け散る音を聞いた。
 
 そして酷い悪夢を見た翌朝、スマホにあの『ルール変更のお知らせ』が届いたのだ。
 
 
 
 
 
 昨夜の傲慢さは今、ドアの向こうでベソをかき、卑屈に許しを乞う木崎からは微塵も感じられない。
 
「葛岡よぉ、もう勘弁してくれよぉ。あの後、すぐ家へ返してやったじゃん? 一眠りして、スッとしただろ? あれ、上司としての俺の思いやりなんだぞ」

 思いやり?

 一体、どの口がほざく?

 あの時、顔を背けてこちらを見ない香を除き、職場の皆が土下座する聡を笑っていた。
 
 特に舞子は木崎にすり寄り、肩へすがって露骨に媚びている。大好きだった、あの天使の頬笑みまで浮かべて……
 
 
 
 
 
 ああ、もう思い出したくない。
 
 とうに手遅れだとしても、今はこれ以上、俺、人間から遠ざかりたくない。
 
 
 
 
 
 聡は屋上への扉を離れ、ふらつく体でゆっくりと非常階段を降り始めた。
 
 ここから逃げ出したい。
 
 あの大通りの、妖怪たちが闊歩する最中へ戻っていく方が、こみあげる欲望のまま屋上で木崎を食い殺すよりずっとマシに思える。
 
 運が良ければ、まだ人間の内に死ねるかもしれない。
 
 だが、その時、雷鳴が背後で轟き、鉄の扉が大音響と共に吹っ飛んだ。
 
 紙一重で聡は飛来する扉をかわし、踵を返して、開いた入口から屋上へ駆け上がる。
 
 展望スペースを兼ねる屋上フロア中央、本格的な造りの真新しい鳥居の奥にある神社手前で立ち止まると、そこには無残な木崎の死体が横たわっていた。
 
 鉄扉もろとも雷に撃たれたようで、ブスブス黒煙を上げ、骨の髄まで綺麗に焼け焦げている。
 
 そして、頭上では、あの巨大な雷雲が漂い、真っ黒い渦を巻いていた。
 
 舞子と香の姿は見えない。
 
 おそらく社本殿の中に隠れ、じっと息を潜めているのだろう。
 
「……いやはや、この期に及んで我が庭へ立ち入るとは……あまりに愚か過ぎて、最早この輩、使い魔へ喰わすにも値せぬ」

 天空、いや、青空の最中に漂う場違いな雷雲の中から、静かで穏やかな声が響く。
 
 間も無く、この地区の責任者だという雲状の魔物が地上へ降下し、古の貴族かと見まがう荘厳な姿に変わった。
 
「……あなたは何物ですか? 通りで沢山の人を吸い込んだ、あの雷雲の化身?」

「あの雲は我が使い魔に過ぎぬ」

「……あなたの庭と言いましたね? このビル全体が?」

「いや、この神社の境内がそうだ」

「つまり、あなたはその……単なる物の怪ではないと言う事ですか?」





 聡がつい敬語を使ったのは、相手の立ち振舞いから生じる高貴さ故かもしれない。

 河童やアカナメが発散していた生臭い欲望、我執の匂いを、この異形からは全く感じなかった。
 
 代りに偲ばれるのは、人知を超越し、逆らう気にもさせない圧倒的な力だ。
 
 
 
 
 
「当社は、およそ千年前、都での醜い権力争いに巻き込まれた末、魔に堕ち、祟り神として恐れられた我を祀るもの」

「……祟り神?」

「迫害し、容赦無く叩き潰した者を都合次第で奉るは、言わば我が国古来の伝統よ。人であった頃の我が名は……はて、何と申したかのう? ともあれ、人の世の穢れに悩み、苦悶し、遂には絶望へと堕ち果てた、諸君の先達という所じゃ」

 貴族の姿をした祟り神は、木崎の死体へ侮蔑と憐みが入り混じる眼差しを向けた。

「儚きかな……間も無く、人の世は終る」

「やはり、世界中で同じ事が起っているのですか?」

「母なる大地が滅びてしまえば、我ら精霊と化した魂も運命を共にせざるを得ん。近頃の人の所業を見るにつけ、駆除はやむを得ぬ仕儀であったが、予想していたより事態の進行は早かった。
魔に堕ちてしまう程、虐げられ、絶望にもがき苦しむ者の数が多かったのであろう。過去の如何なる時代と比しても」

 フッと溜息をつき、聡は空を見上げた。

 青く、何処までも澄んだ晴天。

 血生臭い歴史を積み重ねた人類の滅亡には、ちょっと勿体ない位かもしれない。
 
 その空を切り取るように祟り神が指先で円を描くと、その内側に人と、その人が変じた魔物との戦い模様が次々と映し出された。





 巨大な砂漠でイスラム系戦闘員と多国籍軍が共に包囲され、背中を合わせてカラシニコフや車載機銃を乱射するにもかかわらず、次々と地下から襲うサソリの怪物に貪り食われている光景。

 東ヨーロッパにおいて隣国へ侵攻中の或る軍事大国では、ゴブリンと化した兵士によって基地の航空管制を奪われ、ドローン用コンソールがいじり回された挙句、味方への無差別爆撃が繰り返されている。

 最新鋭戦闘機に取りつき、主翼の上へ座り込んで、あっかんべ~とパイロットを挑発する伝説のグレムリンも見える。

 太平洋上では、水死者のなれの果てである海魔がぶよぶよの身を寄せ合い、巨大なクラーケンと化して真新しい空母を呑み込もうとしている。

 そして、最後に現れる超大国の首都は既に廃墟そのものだった。

 大統領官邸にも、摩天楼のビル街にも、ブロードウェイや金融街、のどかな郊外の住宅地にさえ、生者の気配はまるで無い。その代わり、戦いに勝ち残った魔物同士の共食いまで始まっている。





 おそらく最後は誰一人残らないのだろう。

 絶対的な劣勢の中で、それでも生き残った人々の戦意は未だ旺盛であり、決着に至るまで幾らかの猶予はありそうだが……

「如何に抗おうと、滅びの定めは変わるまい」

 その言葉を発すると同時に屋上を一陣の風が吹き抜け、気が付くと祟り神の姿は消えていた。

 多分、なすべき後始末が……日本の各地で続く戦いの決着をつける為の役目が未だ沢山あるに違いない。

 聡にもある、やり残した事が。





 鳥居を潜って神社へ向い、観音開きの扉を開くと、中に舞子が立っていた。

 香は社の床へ倒れている。
 
 誰かに背後から首を絞められたようで、苦悶の余り、かきむしった指先の跡がうなじへ赤く糸を引き、彼女の舌は唇の端から長く垂れさがっていた。
 
 聡は、立ち尽くす職場の花へ当惑気味に声を掛けてみる。
 
「……舞子ちゃん、これ、君がやったの?」

 聡の方を見ず、舞子は香の首を絞める為に使ったスマホのネックストラップを捨てて、溜まっていた目尻の涙を拭う。

「だって……だってさ、人のままだと私、あなたに食べられちゃうンでしょ?」

「え!?」

「最初はね、香ちゃんが言ったの」

「……何を?」

「堕ちれば、きっと楽になる。何か凄く悪い事……誰かを憎んで、殺したりして、人間を捨てれば良いんだって」

 ポツリポツリと言葉を継ぎ、香のだらりと垂れた舌先を見下す舞子の瞳は冷たく透き通っていて、何の感情も伺えない。

「早く物の怪に堕ちてしまえば助かる……香ちゃん、そう言って、私を見たの。長い付き合いなのに、これまで見た事も無い怖い目で」

 舞子の爪先が香をつつく。

 昨夜、土下座していて木崎に蹴られた感触が、聡の記憶の底で唐突に甦った。

「でも、この子って、頭デッカチじゃん。理屈で判ってても、その通りできない意気地無しじゃん」

「だから、舞子ちゃんが先に殺したのか?」

「だって、急に私へ背中向けるのよ。きっと怖気付いたんだろうけど、私……私は……この子と違うから」

「どう、違うの?」

「辛くても、哀しくても、しなければならない事はちゃんとできるの、何時だって」

 舞子は俯いていた顔を上げ、香から聡へ視線を移して、笑った。

 色鮮やかな職場の花。

 何度、夢に出て来たかわからない、誰にでも好かれる天使の頬笑みだ。

「ね、私のせいじゃないよね? 先に悪い事を考えたの、香ちゃんの方だもんね?」

「……ああ」

 舞子は勢い良く、聡の胸へ飛び込んできた。

 その細い背を強く抱きしめつつ、聡は声にならない言葉を噛み締める。
 
 
 
 
 
 無理だよ。

 君には無理だ、舞子ちゃん。

 どんな罪も痛みも軽やかに人へ押し付け、私のせいじゃないと笑っていられるしたたかな感性が、君を果てしなき絶望から遠ざける。

 物の怪へ堕ちてしまうには、君はあまりにも『人間』そのものなんだ。





「葛岡君、私さ……もう物の怪になれたかな?」

「ああ、大丈夫」

「ホント?」

「何も心配はいらない」

 優しく舞子の耳元で囁き、聡は、己の口が耳まで裂ける乾いた音を聞いた。

 結局、告白はできず終い……

 胸の奥で疼くのが、深い哀しみか、目の前の柔らかな肉への激しい飢えなのか、今の聡にはもう判らなかった。
 

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