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しおりを挟む「はて……そなた、本当にあの利家か」
信長は、一年前に放逐した家臣の顔をしげしげと覗き込んだ。何処か、初めて見る奇妙な生き物を観察でもするような眼差しである。
「男子三日会わざれば括目して見よ、と言うが、一年もあれば、これ程に変わるものか。いや、犬千代、お前には本来、思慮深き一面が秘められていたのかも知れぬのう」
全身を這う信長の視線に耐え、利家は「はっ」と言ったきり、額を床へ擦り付けて動かなくなった。
先程までの覚悟は何処へやら? 想定外の称賛を主から賜り、すっかり困惑しているらしい。
傍らで藤吉郎は無理もないと思った。
主に厳しく叱咤されるのなら慣れているが、褒められた経験と言うと、藤吉郎自身も含めて滅多に無い。
同時に、許しを請う絶好の機会だと思った。
元服する前の幼名で利家を呼んだのは、嘗て抱いていた親しみを、信長が想起したからであろう。先程、大声で笑った時の仕草など、嘗て「大うつけ」と称された餓鬼大将へ戻った感さえある。
もう一押しだ。
物怖じしている場合ではない、と友の背を叩き、藤吉郎は信長の前へ進み出て、必死の声を張り上げた。
「殿、御言葉の通り、利家は最早、以前の利家ではございません。何とぞ、何とぞ、織田家への帰参をお許し頂きとう存じます」
「猿、出過ぎた真似を致すな!」
一転、不機嫌そうに眉間へ皺を寄せ、信長は藤吉郎を睨む。
「利家は悪戯に隣国を回っていた訳ではありません。殿のお役に立つ報せを得て、ここへ報告しに参った由」
「ほう」
それは何だ、と信長が目で利家を促した。
「某、旅先で義元について調べおる内、桑原甚内と名乗る男を知り、近づき申した。かの者、以前、甲斐の武田家に仕えており、今川家の近習と些細な事で争いになった為、主の怒りをかって放逐されたとか」
「ふふ、少々、そなたと境遇が似ておるの」
利家をからかう主の言葉に微かな稚気が漂っていて、藤吉郎はほっとした。 言い方はどうあれ、信長は憤りを半ば鎮めている様だ。
利家はどう感じているのか。
平伏したまま言葉を継ぐ。
「そ奴、今川義元の顔を知っております」
「何だと!?」
一瞬で信長の表情が変わり、大きく身を乗り出した。
「一時、僧籍に入った事があるそうで、その際に寺へ詣でた義元を何度も間近で見た、との事」
「見分ける自信があると申すか?」
「はっ、義元はひどく肥えた体をしており、遠目であろうと確かに見分けがつく、と断言致しました」
「今、何処ぞにおるか?」
「尾張の落合村に庵を結んでおります。されど一報あれば、某が修行しておった熱田神宮まで参ると申しました」
「ふむ」
奇襲を仕掛ける際、確実に敵将の首を取り、その事実を確認しなければ勝利は確定しない。織田軍にとって、義元を見分けうる男となると、まさに喉から手が出るほど欲しい人材と言えよう。
信長は思案顔で雲間の月を見上げ、利家はその思惑が固まるまで、しばし待たなければならなかった。
「その旨、森可成に伝えい。密かに仲立ちする役は、奴が一番適しておろう」
「して、利家は如何いたしましょう?」
藤吉郎がすかさず問うものの、
「金子で褒美を取らすが良い」
と、つれない返事が返ってくる。
「では、帰参の件は」
「俺に尋ねる前に、利家へ聞いてみたらどうだ。真に織田家へ戻りたいか、否か」
「聞くまでもございませぬ」
勢い込んで叫ぶ利家へ、信長は小首を傾げて見せた。
「そこまで思慮を重ねたそなたの目に、今の俺は変わったと映るのであろう。女に牙を抜かれた阿呆へ何故、仕える?」
信長の激しい詰問は、利家の臓腑を貫く鋭さを秘めている。
「確かに、何というか……某、今の御姿に、以前と違う迷いの影を感じておりました。
何事につけ、腹を決めたら最後まで突き進むが、某の知る信長様じゃ。されど、その紅蓮の激しさが、類様の傍らにいる御姿から薄れたように感じられ……」
「貴様こそ、世迷い言を申すな!」
「左様でございましょうか。今川との決戦につきましても、何処か、腹を据えかねておられるのでは」
「何故、そう思う?」
「丸根、鷲津の砦は、今川との戦いで要となり申す。なのに、そこへ未だ、何ら援軍が送られておりませぬ」
信長は無言で利家を睨んだ。
「今川の先手は迫っておりましょうし、増援を願う声が繰り返し届いておる筈。違うか、藤吉郎?」
友から何の返答も無かったのは、肯定の証に他ならない。
「織田家古参の重臣が死に物狂いで守りおる城。敵を欺く布石の為、見殺しにするおつもりか?」
「小賢しい……痴れ者が!!」
利家を見下ろす信長の視線に再び殺気が滲み、急激に膨れ上がっていく。
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