うまのほね

ちみあくた

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 街道筋を逸れて険しい坂を上った先、鬱蒼とした山林の木陰に立ち、マレンゴは亥吉を待っていた。

 救いの神どころか、とんだ疫病神だぜ。

 吐き捨てる様に言い、亥吉は茶屋から掠めて来た手桶へ水筒の水を移し、マレンゴの前に置く。

 酷く喉が渇いていたのだろう。喉を鳴らして、マレンゴが水を飲む間、亥吉はそっと後ずさり、その場から離れた。

 おい、最後に水をくれてやったんだから、恨むなよ。

 茂みの枝をかき分けながら口の奥で言い訳を繰返し、いざ坂を下りようとした時、背後に蹄の音を感じる。

 振り返るとマレンゴがいた。

 心細そうに俯き、ほどけた手綱がぶらぶら揺れているから、置き去りにされると察してもがいたらしい。

でも、亥吉と目が合うと、また素っ気なく眼差しを空へ向けた。
 
「お前なぁ、俺をあてにしてんのか、してねぇのか、どっちだよ」

 無論、答えは返って来ない。

 溜息交じりに亥吉は、目前で聳える巨体を見つめた。

 又、ふっと懐かしさが胸をよぎる。その不思議な感傷の正体を、この時、亥吉はやっと気付いた。

 自分がまだ洟垂れ小僧だった頃、初めて霞と間近に接した時の記憶が蘇っているらしい。

 当時のちっぽけな亥吉と牝馬にしては大柄だった霞の体躯の割合が、現在の彼とマレンゴの体格差に等しいのであろう。

 ろくにこちらを見ないマレンゴの目も、じっくり覗き込んだら、その澄んだ奥深さが霞と似ている様な……
 
 いやいや、馬なんて皆、こんなモンか。

 過剰な思い入れを笑い飛ばし、再び馬の腹部に触れてみて、ささやかな亥吉の感傷は綺麗さっぱり吹っ飛んだ。





 熱い、前よりずっと……

 触ってられねぇ。何だよ、こりゃ!?

 いくら馬の体ったって、これじゃ、あんまり熱すぎらぁ。





 もしや、と思い、先程、極端な反応を示した下腹部を目で確認したら、そこに無数の発疹があった。
 
 畜生、こいつ、患っていやがる。

 亥吉の脳裏に、多田のべっ甲縁の眼鏡の奥、如何にも小知恵が回りそうな目の輝きと、急に能面の如く変じた面持ちが浮かぶ。

 そして博打に負けた直後、大きく口元を歪ませ、「勝ちは負けの始まり」と嘯いた多田の真意を悟った。

 おそらく亥吉と出会う以前、奴は既に馬の病に気付いていたのだろう。それを藩の上役から隠す算段の最中、潜伏場所へ現れた博徒の口車を逆に利用し、厄介を押し付けたのではないか?

 そして、余りの上首尾に笑いが込み上げ、ごまかす為に唇が歪むほど奥歯を噛んで、強張った「能面」が出来上がったのだ。
 
 やられた。

 すっかり血の気の失せた顔で亥吉は立ち竦んだ。
 
 あの廃寺で騙され、掌の上で転がされた挙句、良いカモになったのは彼の方であるらしい。
 
 やはり、尻に帆掛けて逃げだす以外、如何なる道も無さそうだが、
 
「けどよぉ、まれ公、お前の事はどうしたもんかなぁ」

 相も変わらず、マレンゴは空を見上げたまま、亥吉の声に応えない。酷く発熱し、もう素早く動けない体で、その場へ佇んでいる。





 走れなくなった馬はどうするか。

 亡父に教えられた答えは一つ。ひとおもいに、苦しまぬように……





 亥吉は懐の匕首を抜き、慣れない手付きで身構えた。

 マレンゴは逃げようとしない。

 馬は、人が想像する以上に賢い生き物だ。己の立場をそれなりに察し、覚悟を決めているのかもしれないと亥吉は思った。

 よしよし、痛くしねぇから。

 亥吉が刃を大きく振り被った時、マレンゴは、初めて彼の正面へと眦を据えた。
 
 視線がぶつかる。
 
 ろくでなしの濁りきった眼差しと、空を映す汚れ無き瞳と。

 あぁ、畜生……畜生……

 その一瞬、亥吉の体は凍り付き、刃の切っ先もマレンゴの手前で止まった。





 憶えている、この目。

 そうさ、忘れられる訳が無ぇ。あの時の霞と、まんま同じだ。
 
 親父が死んで、借金取りに引きずられて行った日、もう良い年だったあの牝馬には殺されて、肉にされる以外の道が無かった。

 わかってたのかな。
 
 さぞ、怖かったろうに。
 
 泣きながらすがりつく幼い亥吉を、霞は恐怖など微塵も感じさせない澄んだ瞳で見つめ返した。
 
 運命を受け入れ、その上で、泣きじゃくる子供の哀しみを少しでも癒す術を、霞は探している様だった。





 別れ際、頬を舐めた霞の温もりが鮮やかに蘇り、その刹那、慈悲でも憐みでもなく、マレンゴを殺す気力は失せる。

 心はむしろ、その逆へ動いた。
 
 こいつ、もう行く当てが無ぇ。異国でただ一人、俺しか……こんな、ろくでなししか頼れる奴はいねぇんだ。
 
 でも、だからって、どうするよ。
 
 病気持ちの馬を抱え、俺ぁ、これから、どうすれば。
 
 亥吉は、自らの心境の変化に戸惑い、行く当てを見失ったまま、暮れなずむ山道の真ん中で途方にくれた。
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