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しおりを挟むあぁ、まだ先は長ぇなぁ……
古寺で多田と別れて、およそ半日。
人目を忍んで、東海道の裏道を歩き続けた亥吉は、疲労と寝不足でろくに回らぬ首筋を撫でた。
ついでに藪蚊に刺された辺りをぼりぼり引っ掻く。
今年は随分と蚊が多いらしく、馬の巨体にも群がっているが、自分の事だけで精一杯。追い払ってやる余裕は無い。
この時、彼が辿っているのは、保土ヶ谷宿と浦賀を結ぶ金沢路から山間部に逸れ、険しい峡谷へ至る獣道である。海の匂いが届く間は、隠れ家がある峡谷まで道のりの半ばにも達していない。
日が落ちれば漆黒の闇。藪蚊どころか山犬の類まで跳梁跋扈し、灯りが無いと身動き一つ取れなくなる。
陽の傾き具合からして、今はさしずめ羊の刻を過ぎた頃合いであろうか。
しばらく身を隠す、と言う若侍との約束があり、借金取りから逃げる為にも、一刻も早く峠を越えねばならない。
のんびりする暇など亥吉には毛頭無いが、生憎、山道を進む足取りは一向に捗らなかった。
急ごうにも馬がこちらの言う事を聞かず、何かと足を止めてしまうのだ。
そして、空を見上げる。
翳りつつある陽の輝きを、前夜の月と同じく、鮮やかに瞳へ宿して動かない。
「おい、歩け、こら」
亥吉は思いっきり手綱を引っ張った。
でも、満身の力を込めても、馬の巨体はびくともしない。
溜息を漏らす亥吉を余所に、巨体と似合わぬ円らな瞳が天空へ焦がれ、追慕の眼差しを送り続けている。
「景色が珍しいのか、まれ公。お前、きっと俺なんざ目に入らないんだろうな」
亥吉が漏らしたまれ公というのは、多田から聞いた名『マレンゴ』を、彼なりに呼びやすく略したものだ。
フランス国の英雄が跨っていたと言う名馬にちなみ、大陸の草原を駆け廻る野生馬を捕えた際、そう名付けられた。
そして野生馬を買った異国の行商人が、生糸売買の得意先である岩須藩への貢物として船に乗せ、海を越えたのだと言う。
やれやれ、海一つ隔てたら、同じ馬でも随分と違うもんだぜ。
亥吉は、幼い年月を共に過ごした牝馬・霞の面影を思い、目の前のマレンゴと重ね合わせた。
人を敬う気配の無いマレンゴと比べ、気立ての優しい奴だったな、と思う。
遠慮なしにじゃれてくる幼子を大抵の牛や馬は煙たがるものだが、亥吉が小さな手でたてがみを撫でる度、霞は静かな瞳で見つめ返してきた。
母とは幼くして死別したから、この時期の亥吉にとって、霞はある意味、母親代りだったのかもしれない。
亥吉も霞と過ごす一時が好きだった。
大きな瞳の奥に、時々、色鮮やかに浮かび上がる様々な景色を感じた。
東海道を行きかう旅人の姿、山沿いの険しい峠道、そして、それを超えた先にある新緑眩しい渓谷。
おそらくは幼児の思い込みから来る錯覚に過ぎまい。
だが、その全てが瞳の奥で揺らめく度、亥吉を魅了した。父と旅を共にする内、霞の目へ自ずと焼き付いた光景に違いないと、一心に信じていたのである。
だから、父が死に、残った借金のかたに霞が奪われた時、怒りと悲しみが小さな胸を引き裂いた。
まともな職につかず、粋がった挙句、街道筋の博徒へ成り果てたのも、その際の心の傷が遠因かもしれない。
何にせよ、人様なんざぁ知らぬ顔のでかぶつと、比べものにならねぇ良い馬だったよ、あいつは。
亥吉はぼやき、ふと首を傾げた。
ならば何故、俺はマレンゴを見た時、妙に懐かしい気持ちになったのだろう。
答えを探しながら、右手を伸ばし、逞しい腹の筋肉を撫でてみる。日本の馬より、かなり体温が高い様だ。腹の下を覗き込むと、後ろ足の間に大きな性器が垣間見えた。
「へぇ、流石に立派な一物をお持ちで」
好奇心から下腹に触れた瞬間、大人しかったマレンゴがいななき、飛びすさった。
亥吉が尻餅をつく間、更に後退して後方の木陰で立ち止まる。
「畜生、驚かしやがって」
腰の水筒から中身がこぼれ、亥吉の足元を濡らしていた。風呂敷に包んでいた握り飯も坂の下まで転がり落ちた様だ。
さて、どうしたものか。
隠れ家の近くに渓流はあるが、この調子だと到着まで幾ら時が掛かるか判らない。
亥吉は止む無くマレンゴを獣道の木陰に繋ぎ、食料や水を手に入れる為に街道の方へと引き返した。
街道筋の峠にある茶屋では、亥吉の幼馴染が職を得ている。
お千という大らかな年増で、日頃軽口を叩き合う仲だが、その口から出た言葉を聞き、亥吉は思わず息を呑んだ。
異国の馬が盗まれ、岩須藩が血眼で探しているというのだ。
居場所を掴んだ者には金一封で報いるとのお触れが出ており、鳴潮の左兵衛も部下に捜索を命じたらしい。
何故、こうも早く手が回ったのだろう。
あの青瓢箪のへっぽこ侍がへまをしでかしたか、それとも亥吉には知りえない事情があるのか。
面倒臭ぇ、このまま逃げちまえ。
そう思ってみたものの、マレンゴを見捨てて行くのは気が引けた。取りあえず水と握り飯を買い込み、急ぎ足で茶屋を出て獣道へと舞い戻る。
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