あんぽんたんの皆様へ

ちみあくた

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 末松は障子へ凭れたきり、中々動かない。

 静まり返った居間へ苦し気な息遣いが響き、障子の桟を握りしめた指の震えで、立てかけられたバットがカタカタ揺れる。

 どうやら、ここが交渉の勝負所らしい。

 浅子は久松と一定の距離を保ったまま、最も効果的と思える段取りを脳裏に描いた。

「彼の苦境、実はそれだけではありません。事故が起きる前から、既に多額の借金を抱えていたんです」

「……嘘だ。あんなクソ真面目な奴が、返すあてのない借金なんかする筈、無ぇ」

「いえ、真面目な若者だからこそ、却って逃れられない借金もあります」

 浅子は愛用のビジネスバッグからクリアファイルに入った書類の束を取り出し、障子へ凭れたままの末松へ見せた。

「敬一君直筆の奨学金借用証書です」

「……奨学金?」

 末松は前のめりで書類へ手を伸ばし、奪われる寸前、鈍重そうな見た目と裏腹な素早さで浅子がサッと引っ込める。

「悪いけど本書です。破かれたら困るんで、お渡しできません」

「んなモン、わしが破るか!」

「さぁ、どうでしょう。何せ638万円もの高額な証書ですから」

「何ぃ!?」

 浅子が示す請求書の金額欄には、確かにその数字が記載されている。

 末松は信じられない面持ちで、恐る恐る書類を覗き込み、何度もその額面を確かめていたが、

「奨学金で苦しむ奴の話は聞き覚えがある。だが、それにしても、何故こうまで膨れ上がるんじゃ?」

 と、ため息交じりのか細い声を出す。

「え~、我々西日本高等教育支援機構の極めて厳格な基準により、算出されたものです」

「……我々? そうか、あんた、役所が送り込んだ奨学金専門の借金取りか?」

「……特務マイスターって呼び名に、ボク、プライドを持ってまして」

「ンなもん、借金取りは借金取りじゃろうが!」

 落ち込みかけた気持ちが、怒りで逆上へ転じたらしい。ついに末松の手がバットへ伸び、青筋立ててグリップを掴んだ。





 あ、ヤバい……

 ヤバいはヤバいが、浅子にもプロの面子がある。リスクを承知で臨んだ交渉だ。ここに至って弱みなんか見せられない。

 内心の恐怖に辛うじて耐え、

「六年前、あなたと喧嘩別れした敬一君は、一人で大学生活を始める為、どうしても奨学金を受ける必要がありました」

 敢えてノホホンとしたポーカーフェイスを装う。

 滑らかな言葉の流れを絶え間なく維持し、末松に怒りを吐き出す暇を与えない。

 この辺の駆け引きは厄介な交渉に向き合い、青息吐息で実績を積み上げてきた浅子のキャリアがなせる業である。

「彼、私大の経済学部を入試した際の成績は良かったから、利子が生じない第一種も申請できたのに、審査が緩くて手っ取り早い第二種を選び、月二万満額を支給されてます」

「……月二万が、在学中に600万を超えたんか?」

「四年分の貸与額に、第二種の場合、月一割の利子がつきますから卒業後の払いは確かに楽じゃありません」

「た、確か、しばらく前に、返済が若干楽になる方向へ制度が変わったと聞いたぞ」

 浅子は肩をすくめ、

「あ~、変更によるメリットは過去の学生に遡りませんし、所得連動返還型とか、特にお得な制度は第一種申請の優秀な学生に限定されてます」

 と宥める口調で言った。

「アホな貧乏人は泣き寝入りかよ!?」

「お気の毒ですが、第一種を申請しなかった学生さんの自己責任ですよ」

「酷な話じゃなぁ。それにあいつ、就職先を探す時も苦労したらしいし……」

 浅子の話術で気勢を削がれ、末松はため息交じりで腕を組み、物思いに沈む。

 その手が金属バットから離れた事に内心安堵しつつ、浅子も両腕を組んだ。合わせ鏡の如く末松と同じ仕草で。

 更に、それとなく呼吸のタイミングまで合わせ、微妙なしかめっ面を丁寧に真似ていく。

 仕草をコピーする狙いは交渉相手とのシンクロだ。

 対峙する者をそれとなく模倣する行為は、警戒と敵意を緩める心理学的効果があるとされ、浅子が以前から最も得意とするテクニックなのである。





「実は敬一君ね、卒業時の成績がイマイチだったんです。連日、朝から晩までバイトしていた分、必要な単位の取得だけで精一杯だったらしく」

「大学を出て、すぐ正社員の口が見つからなかったのは、そのせいかよ」

「就職浪人の憂き目にあっても、奨学金返済は自動猶予されません。滞納分には5%の延滞金が上乗せされる上、三か月の滞納で、金融機関のブラックリストにのり、他での借金が不可能になります」

「……ぶ、ブラックリスト!?」

「私がお伺いし、彼に返還の一般猶予手続きをして貰って、ようやく一息つきました。それで今年、お目当ての職種で正社員の口を見つけ、滞納分の支払も再開できるかと思った矢先、あの事故ですからね」

「ついてねぇ」

「ええ」

 末松は床の間の前に座り直して沈黙し、浅子も口を閉じた。





 互いに腕を組んだまま、沈黙する事、三分余り。

 絶妙なシンクロが功を奏したか、末松の心境に幾らか変化が生じたらしい。

 急須から浅子の分もお茶を注ぎ、茶碗をこちらへ押し出す。

 渋めのお茶を二人で啜った後、

「……それにしても、あんた、息子の事情に詳しいやんか。仕事とはいえ、第三セクターがそこまでやるもんかいな」

 と、聞いてきた。

「奨学金債務の確実な回収の為、マンツーマンでお付き合いするのが、ボクら特務マイスターの責務ですから」

 浅子は、深い同情を満面に示し、重い溜息を洩らす。

「それに敬一君の場合、他人事とは思えない共通点があったんですよ、ボクと」

「見た目は全然違うがな」

「返済プランの修正を検討する為、彼を入院中の病棟へ訪ねた時、打ち明けてくれたんですが……」

 およそ十日前の記憶を辿る浅子の言葉は、末松にとって初めて知る家出後の息子の素顔を示すものである。
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