緋の残像 伝説の殺人鬼が恋人の心の奥で蘇る

ちみあくた

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古き骸を捨て 4

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「僕……僕は……」

「あ~、もうちょい、ショック療法、要る感じ?」

 志賀の腕がしなり、振るう金槌の先端が守人の額を掠めた。刻まれた浅い傷から血の一筋が頬へと伝う。

 見開かれた守人の瞳は、目の前の危機と過去のトラウマの情景を同時に凝視していた。

 あの高架橋の下、暗い資材置き場に流れていた血の赤……理性がひしゃげ、虚ろな眼差しが虚空を彷徨い、真紅の奔流が視界を埋めていく。

「旦那ァ、昔、言ったよな、俺を助けてくれるってさ。ヤバくなったら一回おっ死ぬ。んで、魂だけになっちまって、何処かのガキへ乗り移れば良いンだろ?」

 守人は答えない。

 その双眸は完全に焦点を失っていて、放心状態にある様にも見える。
 
「俺にもやり方、教えてくれんじゃね~の? 実演すると思ったのにズリ~わ。勿体づけやがってよぉ!」

 喚き続ける志賀の眼差しも完全に常軌を逸していた。

 『タナトスの使徒』に記された陳腐な都市伝説を、この闖入者が本気で信じているのを知り、臨は守人が殺されると思った。

 必死で助ける隙を伺うが、しかし、
 
「どけ」

 意識を失ったかに思われた守人が、不意に口を開いた。

「はぁ!?」

 尚もおどけて金槌を振り回す志賀の表情が、次の瞬間、鋭い痛みに歪む。

 金槌が宙を舞い、防音壁にぶつかって落ちた。

 一緒に転がった小さな塊は……指だ。

 人差し指、中指、薬指、三本分が第二関節の上から切断され、床の上にある。
 
 切断面から吹き出す血を見て、志賀は守人から飛びのき、声にならない悲鳴を上げた。

「高槻君!」

 立ち上がった守人へ駆け寄ろうとして、臨の足が止まる。

 彼はメスを握っていた。前夜、赤い仮面や衣装と一緒に段ボール箱の中から見つけたと言う、あのメスだ。

「君、それ、どうして?」

 臨は最後まで尋ねられなかった。

 こちらを見た守人の雰囲気が、これまでの彼と違う。あまりにも怜悧で何の感情も読み取れない。





「あ、あんた、隅さんか!? やっと出て来てくれたんか」

 一瞬、痛みを忘れて、志賀は歓声を上げた。

 無表情な顔がそちらを向く。

「助けてくれよぉ。俺、あんたの言う通りしたじゃン!」

 感情を見せぬまま、志賀の方へ歩み寄る。

「なぁ、『赤』って名でサイトへアクセスしてたのアンタだろ? 言われた通り、全部やったぜ。俺、これからもずっと……」

 尻尾を振る忠犬よろしく、守人の前へかしずく志賀の頬へ銀色の光条が閃いた。

 喋り続ける志賀の唇が横へ裂け、咄嗟に抑えた掌の間から鮮血が噴き出す。

 切り落とされた指先と、切り裂かれた口元と、床を濡らす多量の血潮はどちらのものか判らない。
 
「我々は何処から来たのか?」

 抑揚の無い声で囁き、守人は尚もメスを振るった。

「止めろよぉ、俺はあんたの忠実な……」

 わめく志賀の目の上にメスが斜めの線を引き、目蓋の内へ流れ込む血が視界を黒く塗り潰す。

「我々は何者か?」

 滑らかな手捌きでメスが閃く度、志賀の全身は血塗られ続けた。

 飛び散る飛沫が床に点描をなし、気を失ったままの晶子の顔まで飛び散って、濡らす。
 
「俺、こ、殺され……殺さバ……殺セっ!」

 金槌を左手で拾い、自暴自棄になった志賀は守人へ逆上の牙を剥いた。純粋な敵意をこめ、殴殺しようとするが、当たらない。

 右へ、左へ。

 何の武道の心得も無い筈の守人が、余裕をもって志賀の攻撃を避け、あしらっている。

 その横顔は最早、無表情でも無い。

 唇を微かに歪め、笑っている。

 新しい玩具を貰ったばかりの子供にも似た無邪気な笑み。
 
「フフッ、我々は何処へ行くのか?」

 メスが垂直に肩口を貫いて、こらえきれずに志賀は膝を折り、己の血が作る泥濘へ突っ伏した。

 止めを刺そうとした守人へ臨が背中からしがみつく。

「あなたは……やっぱり、あたしが知ってる高槻君じゃない!」

 臨の声で守人の動きは一瞬、止まった。

 その間隙をつき、獣じみた悲鳴を上げる志賀が二人の横をすり抜け、診察室の外へ逃げ出す。

 追おうとする守人の前に臨は立ちはだかるが、

「どけ」

 鋭さを増す眼差しは、志賀を傷つけた寸前に見せたのと同じ虚無を湛えていた。

 容赦なく切断された指のイメージが脳裏を過り、思わず後ずさる。
 
 振向かずに去る守人を見送り、元の彼と似ても似つかぬ『怪物』の存在を、臨は改めて意識せずにはいられなかった。
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