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籠の鳥、あがく 2
しおりを挟むあの人とは隅亮二、一度目とは守人が殺されかけた時の事なのだろう。
臨は五十嵐から話を聞いた事がある。
警察庁主導の研究活動で隅がFBI研修へ参加した1990年代の一時期、科捜研スタッフのみならず若手の警察官僚へも巧みに取り入っていた、と。
だとしたら、幼い守人が事件のトラウマで精神を病んでしまった時、警察のつてを辿って彼の両親と接触。その手腕で信頼を勝ち取り、守人が警察病院を退院した後、主治医として心のケアを引き受けたとしても不自然ではない。
五十嵐は守人のカルテを探し、富岡も事件捜査を担当した所轄署を全部巡って関係資料のサルベージを図ったと言う。しかし、治療の経緯や症状の変化、担当医師について何一つわからなかった。
データの多くが破棄され、残っている物も富岡の権限ではアクセスできない。
単に資料の保存が粗雑だった為か、それとも隅の関与を疑い始めた警察上層部による隠蔽か?
五十嵐は、それ以外の可能性も考えていた様だが……
「幼少期の精神的トラウマをケアする場合、初期治療が最も重要でね。後の容態を大きく左右する。その点に於いても、あの人の処置は行き届いていたな」
夢見る様に守人は言う。
「隅がまともな治療を? あたしには信じられない」
「まさに当を得ていたよ。外見的にはトラウマから派生した人格の揺らぎを矯正する姿勢を示し、実際は正反対の方向へ導き続けたんだ」
「まさか、解離性人格障害をわざと悪化させたの!?」
「そう、私の、この『赤い影』としての個性をより正確に固着させる必要があったからね」
臨は言葉を失った。
無性に怒りが込み上げ、おどけて見せる余裕も無い。
心理学を志す者の一人として、その高度な知識、技術を、残酷な遊戯の為に使う人間の存在が許せなかった。
「必要なら手段を選ばなかった。例えば、子供の依存対象を自身へ集中させる試み、とか」
「……親と子を切り離そうとしたのね」
「丁度、興味本位のマスコミ報道で夫婦仲がこじれていたから、旧知の記者を使い、更に不和の種を蒔き散らしたらしいよ」
「その結果、あなたの両親は離婚に追い込まれた」
「私の、じゃない。高槻守人の、だろ?」
心の中のもう一人を嘲り、見下す、冷たい言い方だ。
だが完全な他人事として言い切る語勢にやや力が籠り、臨には、その強調が不自然に思えた。
そして、気付いた不自然な要素なら他にもある。
家族が崩壊した真の原因を、彼は何時、誰の口から知らされたのだろう?
守人が15才の時に父は交通事故で他界しているが、今の話を聞く限り、隅が事故に関与している可能性は無視できない。
実の親を積極的に排除する意思を持っていた以上、世に知られざる殺人事件がもう一つ、存在していたのかも知れない。
そんな非道の数々を、隅は自らの手柄と見做し、少年へ誇らしげに告白したと言うのか?
自己顕示欲が強く、瀬戸際のスリルを必要以上に追い求めるサイコパスならあり得る事だが、不自然さは拭えない。
『私』と『僕』の隔絶も感じる。
晶子の催眠療法が行われた日まで『私』の人格が現れている間の記憶を、本来の守人は持っていなかった筈だ。
だが二つの人格が統合されつつあるとしたら、話は違う。
『私』と記憶を共有し始める事により、『僕』、即ち本来の守人も否応無く全てを知っただろう。
今、臨と語り合っているのは『私』の人格だ。
でも沈黙を破った後、言葉が止まらない感情の奥には、臨へ真実を伝えたいと願う『僕』の心が隠されているのではないか?
赤い仮面に覆われた本来の彼は、未だ統合の完成を拒み、抗っている気がしてならない。
「高槻君はお父さんが亡くなった後、親戚の家を転々としたって言ったよね。その間、隅はどうしていたの?」
敢えて疑念を噛み殺し、軽い口調で、臨は質問を続けた。
「ある程度、『私』の人格が固着してしまえば、必ずしも直接会う必要は無い。あの人は『タナトスの使徒』のインターネット・サイトを通じ、導きの声を届けてくれた」
確かにネットを介した交流なら、守人がどんな地方へ行こうと差支えは無い。
そう言えば臨が守人の部屋を訪ねた時にも、今時流行らない大型のデスクトップパソコンが置かれていた。
オンラインゲームに嵌る様子も無かったから、あれは『タナトスの使徒』の閲覧、隅が作り上げたネットワークとの連絡手段に使用されていたのだろう。
あの部屋で『タナトスの使徒』の殺人動画を見せられ、後にパソコンのデータを調べてみた時、コンピューターウィルスの感染等は見つからなかった。
特別な仕掛けをする必要など無かったのだ。
守人自身が『私』の人格で動いている間、自室のパソコンを直に操作しておけば、それでアクセスできたのだから。
臨は忸怩たる思いを辛うじてポーカーフェイスで包み、守人の言葉に耳を傾ける。
「陸奥大学に合格し、こちらへ移り住んでからは、あの人の代りに『タナトスの使徒』ネットワークのメンバーが訪れ、臨時に立ち上げる複数のSNSアカウントも使って、様々なサポートを受ける事ができた」
「ネットワークのメンバー……あのヒッピー男・志賀進もその中にいたのね?」
「さぁ、どうだったかな。あんな小者、眼中に無い」
吐き捨てる様な『私』の口調を聞き、臨は少しだけ志賀を哀れに思った。
あいつ、仙台のプロムナードで襲ってきた時、『ホントは俺、お前らの事は前から知ってるんだけど』なんて言ってた。アレ、ネットを介する長期間のサポートを遠回しに匂わせたのかな……
正直、あまり思い出したくない。でも、そんな奴らが守人の暮らしを支え続けていたとしたら、
「え? でも、あなたが住んでいる家は、中国にいる叔父さんから管理を頼まれたんだよね? それで家賃をタダにしてもらってるって聞いたよ」
「叔父さん? ふむ、そんなのいたっけ?」
大仰に守人は首を傾げた。
その手に握られている古い外科用のメスは、赤い仮面やレインコートと一緒に家の物置へ仕舞われていたと聞く。でも、本当は隅か、ネットワーク・メンバーの誰かに直接渡された品かもしれない。
重要な『実験』の小道具として……
広大な守人の住処が臨の脳裏にふと浮かんだ。
灰色の塀が四方を囲み、監視カメラがそこら中にセットされた庭と屋内。始めて見た時、陸奥大学・精神神経医学教室に似ていると感じたのを臨は覚えている。
通称『ラボ』、直訳すれば実験室。
24時間、ビデオカメラで何者かに監視されるあの家は、文字通り高槻守人というモルモットを飼う実験室だったに違いない。
観察者は、常に最前列の席に座し、最も観察しやすいシチュエーションをキープしているもの。その為ならリスクを冒すのも辞さない。
おそらく実際には存在しない叔父の存在を信じ込まされていたのは、いわゆる『作られた記憶』の効果なのだろう。
繰返し刷り込まれた記憶を、『私』はフェイクと認識、本来の守人の人格だけがリアルと見なし、後生大事に抱き続けてきたのだ。
いやだな、ソレ。
偽物の思い出を本物の記憶に上書きされ、自分自身は何一つ気付きもしないまま、生きているなんて……
ゾッとする。あたしには絶対、耐えられない!
そう思いつつ臨も又、何を信じて良いか、判らなくなりかけていた。
これまで真実だと思っていた守人の述懐、その幾つかが『作られた記憶』の影響を受けている場合、もう確かな事など何も無さそうに思えてくる。
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