夏の終わり

ちみあくた

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 長い夏が終わる頃、仰ぎ見る夕日は僅かにその色合いを変える。灼けるような赤の鮮烈さが失せ、徐々に退色した影の色合いを帯びていく。
 
 9月初旬の或る休日。
 
 そんな日差しが、閑静な避暑地の森に聳えるブナの木肌を照らすと……幹の下から上へ、ゆっくり昇っていく小さな虫の外殻を鈍く輝かせた。





「きれい……宝石みたい」

 ブナの根元へチョコンと座ったまま、幼い少女が呟く。
 
 見た所、およそ六才くらいか。
 
 青が基調の可愛いドレス、色白の整った顔立ちはフランス人形さながらで、背後に建つ巨大な洋館の令嬢らしい。
 
 相当な資産家の一族なのだろう。
 
 傍らには、厳しい残暑にも関わらず執事の黒服を身にまとう老人が、己の孫へ向けるが如き慈愛の眼差しで、そっと寄り添っている。
 
「ねぇ、爺や、これ、何と言う虫なの?」

「セミです、サオリお嬢様。多分、ヒグラシではないか、と」

「セミ? でも、この子、鳴かないし、飛ばないし」

「まだ幼虫の状態で、羽化する前なのです。これから全身の殻を脱ぎ捨て、お嬢様も良く御存じの姿になります」

「ふうん、トオルにも見せてあげたいな」

「は?」

「ねぇ、爺や。あの子、何処へ行っちゃったんだろ? さっきまで、すぐそばにいた筈なのに」

 幼い主人の問いかけへ老人はすぐ答えなかった。





「……どうしたの?」

 少女の表情に不安が影を落とす。

 その瞬間、急に夕日が翳り、電子音のノイズに似た不快な音色が森の静寂を掻き乱した。

 のどかな森には全くそぐわない代物で、何処から聞こえるかも分からない。夕日の色合いが一気に暗さを増し、心持ち、木々の間を吹き抜ける風も強くなったようだ。

 老人は少し慌てた様子で、別荘の方を振返る。
 
「あ、あの子は……トオルは只今、お屋敷の方へ戻っております」

 少女も老人の真似をし、別荘を振返って、チョコっと首をかしげて見せた。
 
「あの子も私同様、色々と東京の旦那様、奥様から申し使った用事がございますので」

「ん~、爺やの孫だからって、トオルまであたしの家族にペコペコしなくて良いのにね」

「……はぁ」

「パパやママもひどい。すぐ別荘へ来るって言ったのに」

「お仕事が忙しいのでしょう」

「でも、待ちぼうけばっかりよ、あたし」

「はぁ……世界は今……何と言いますか、とても大変な情勢ですから」

「いろんな所で、大きな国と国とがケンカしそうなのよね」

「2020年代に起きた幾つかの争いをきっかけに、戦争の種が世界中へ蒔かれてしまいました」

「……ふうん」

「でも、ご安心下さい。何か事あれば、別荘の地下にあるシェルターでご家族一緒に過ごせます様、私達も準備をしております。トオルも間も無く、こちらへ戻って来るでしょう」

 頷いて少女はセミへ視線を戻した。そんな話の間も虫は脚を止めることなく、木肌をゆっくり登り続けている。





「爺や、この子、何だか寂しそう」

 しばらく虫を見つめた後、ポツリと少女は呟いた。

「セミが、でございますか?」

「だって、もう秋だよ。セミの声なんて、どこからも聞こえない」

「あぁ、そうですなぁ……」

 老人も又、セミを見やり、憐れむ表情を浮かべる。

「セミは木の皮の裏へ卵を産みつけられ、孵化と同時に地面に降りて、土へ潜ります。そして、長い時をそこで過すのです」

「どれくらい?」

「種類にもよりますが、およそ七年程」

「そんなに長い間、ずっと土の下なの?」

「ええ、ようやく土を出て羽化しても、成虫になった後が短い。一週間から、せいぜい一月位で死んでしまいます」

「そっか……この子、もう長く生きられないのね」

「まして夏の終わりの、こんな時期に羽化するのでは、死を迎えるまでの間、ほかのセミと出会う事無く、虚しく鳴き続けるしかないでしょう」

「一人ぼっちで?」

「ええ」

「死んじゃうまで、ず~っと?」

「もっと早く光を目指すべきでした」

「……かわいそう」

 小さな瞳から頬へ涙が伝っても、少女は虫から目を逸らさない。

「手遅れだったのです、何もかも」

 傍らの老人が呟く声は、少女へ向けてと言うより、自身を諫める苦い響きを含んでいた。

 少女は少し驚いた顔で、虫から視線を上げ、執事の表情を見つめる。

 その瑞々しい感性が、やせ衰えた老人の胸に渦巻く悲哀を感じ取った時、又、先程の異様なノイズが大きくなった。

 急速に翳る空。
 
 夕日を横切る光が七色に分かれ、視界全体が霞んで不安定に揺らめき……
 
「あっ!?」

 かぼそい悲鳴を少女は漏らす。

 老人の姿も又、周りの景色同様に揺らめき、原形を失い始めたのだ。

 少女が目を凝らすと、ほんの一瞬、執事が自身と同じ年頃の少年に見えた。見慣れた顔で間違えようもない。それは屋敷にいる筈のトオルの姿に他ならない。
 
「爺や……これ、どういうこと!?」

 心が乱れるにつれ、サオリ自身も又、周囲の不安定な揺らめきの渦中へ捕らわれていく。

 朧げに姿が霞み、赤みを増す夕日と迫る闇の狭間へ、今にも溶け込んでしまいそうに見えた。

 それはここだけで起きている現象ではない。見渡す限り、この森を取り囲む全ての「現実」が歪んでいく。

「あぁ、これはいかん! サオリお嬢様、もうお屋敷へ戻る時間でございます」

 辛うじて幻を打ち消し、元の姿を取り戻した老人が叫ぶ。
 
「でも、もし、トオルがここへ戻って来るなら……」





 ノイズは今や空を覆い、夕陽がオーロラに似た光彩へ取って代わられようとしている。

 それでもセミはブナの幹を登っていた。

 取り巻く異変から敢えて目を背け、只、夏の終わりの景色へしがみつこうとしていた。
 
 どうあがこうとも、未来には孤独な死しか待っていないと言うのに、ちっぽけな生命を賭け、迫り来る何かへ抗い続けているようだ。
 
 だが、老人の方は、虫と対照的な動揺と困惑を露わにし、苛立ちに揺れていた。

 空を見上げ、周囲を見回し、止めどない危機感に声を掠らせて、

「まずい……お嬢様、危のうございます。一刻も早く、お屋敷のシェルターへ」

「いやっ!」

 最早、待ったなし。

 老人は強引に少女の手を引き、洋館の方へ歩き出そうとしたが、どうやら手遅れだったらしい。
 
 凄まじい輝きが東の空で発した。

 続く轟音。そして、湧き上がるキノコ雲……

 弱々しい夏の夕日を完全に蹴散らした上、空の歪みさえ一瞬で吹き飛ばす。
 
 顔を伏せていた少女がそちらを見ようとすると、

「ダメだっ!」

 老人は掌で少女の視界を覆い、更に強引に洋館へ引っ張った。

 玄関の扉を開ける。

 すると、既に準備万端の核シェルター入り口、地下へ向かうエレベーターが扉を開いている。
 
「さぁ、急いで!」

 鉄扉へ飛び込む寸前、少女は一度だけ振返った。

 恐ろしく広い規模で発生している火事の炎が空を埋め尽くす中、ブナの幹の中程で羽化し、まだ柔らかな翼を広げようとしているセミが垣間見え……
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