497グラム

ちみあくた

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 気がつくと、俺は外科病棟の中にいた。
 
 病室付近の廊下では、時折り、巡回のナースやトイレへ向う患者とすれ違う。
 
 だが、どいつもこいつも知らぬ振りして、俺には目も止めやがらねぇ。
 
 ついさっき、真奈美の両親にシカトされたのを思い出し、苛立ちを募らせながら、俺はナースステーションの方へ走った。大勢、人がいる所なら、真奈美の奴も追って来れないと思ったんだ。
 
 生憎、辿り着いた詰め所の看護師は出払っていたが、通路を挟んでそこに面する一つの扉が半分開いているのに、俺は気付いた。
 
 ナースステーションに一番近く、常に見通しが効くようになっている病室。
 
 そこは、入院している患者の中でも一番容体が悪化した奴が入る部屋だ。他の病室からここへ移され、ナースが始終覗くようになると、大抵は助からない。
 
 死に一番近い病室。

 漏れる灯りに導かれ、俺が中を覗き込むと、そこには一人の男が寝ていた。
 
 アッシュブラウンに染めた長髪と無精ひげが天井からの照明で青白く映え、頬がこけた実に貧相な野郎の顔……。
 
 
 
 
 
 あぁ、アレ、俺だわ。
 
 
 
 
 
 手術の後らしく、死にかけた俺の腹の辺りには何重にも包帯が巻かれ、こん睡状態のまま、ヒ~ヒ~か細い息遣いをしている。
 
「……お互いさまって、こういう事か?」

 例によって音も無く背後に迫る真奈美の気配を感じ、俺は振返らずに訊ねた。

「ええ、まだあなたは完全に死んでいないけど……」

「土俵の徳俵に足が掛かった状態だわな。内臓を刃物で切り裂かれて」

「それ、生き霊って言うんだよね」

「さあな? 幽体離脱って表現の方が近いかな」

 頭の中は真っ白で、妙に淡々とした言葉が口から出た。開き直りが功を奏し、もう恐怖など欠片も無い。
 
「要するに、あなたも霊体になっちゃったから、私が見えるのよ」

「それはつまり……生きている人間には、俺達の姿は見えず、声も聞こえないって事?」

 真奈美はしたり顔で頷いた。

「どんなに騒いでも、ね。私達がお互いを見る姿にしたって、所詮、実体じゃない分、見る側の気持ちで違って見えたりする。血塗れだったり、鬼みたいだったり……まぁ、先入観の問題ね」

「そんな事、何で知ってんだ?」

「霊安室で、先に運び込まれていた先輩に教えてもらった」

 そう言えば、あの部屋にストレッチャーは二つあった。では、その先輩とやらはどうなったのだろう?

「何時の間にか、いなくなったわ。お迎えが来たって事じゃない?」

「天国か、地獄へ? ますます信じがたい話になってきた」

「信じなくて良い。どうせ、いずれは経験する事になるし」

 横たわる瀕死の俺を、真奈美は静かに見下した。

 確かにこうなると、あの世を信じるウンネンに拘っている場合じゃない。
 
「わかる? 私が化けて出た訳じゃなく、あなたがこちらの世界へ来たんだって事」

 だから自分は幽霊じゃない、と真奈美は言いたいのだろう。

 そう言えば、廊下を逃げ回っている間、何人か患者とすれ違ったが、連中の中にも生気の無い奴がいた。

 多くの死者が、容易に自分の死を受け入れられないまま、病院の中を彷徨っているのかもしれない。

 今やこの俺も、似たような立場なんだが……。
 
「ゴメンね」ともう一度、彼女が言う。

 でも、罪悪感はそれほど伝わってこない。
 
 まぁ、当然だよな。どちらに非があるかと言えば、圧倒的に俺だ。死にかけで初めて気づくのは間抜け過ぎるが、弁解の余地なんてありゃしねぇ。

 この病院へ来るまでの成り行きを全て思い出し、俺は力無くベッドの端に座り込んだ。





 昨日、俺は朝から台本を執筆していた。

 閉め切りが近いのにまるで筆が進まず、昼過ぎから酒を呑み出す。最近、良くあるパターンって奴さ。
 
 俺が書けなくなったのは、ツレが悪い! あいつが妊娠なんてするから、調子が狂い出したんだ……。
 
 そんな愚痴をこぼしつつ飲み、冷蔵庫のビールを全部平らげた頃、真奈美が家へ帰って来た。
 
 出産休暇をとる寸前まで仕事を続ける予定で、アイツの方もかなり疲れた顔をしていたっけ。
 
 俺が酒を買ってこいと言ったら、真奈美の奴、いきなり説教始めやがる。
 
 もう少し親になる自覚を持て、だの……子供が生れたら定職について、家にもお金を入れて欲しい、だの……。

 大体、その手のありきたりな話だったと思う。

 俺が書けなくなったのは誰のせいだ!

 そう怒鳴り、酔った勢いで真奈美を平手打ちした掌の感触を覚えているよ。

 いつもなら、あいつはそこで黙るんだ。

 顔を伏せ、涙を堪えて、コンビニまで俺のビールを買いに行く。でも、その時は違っていた。

 目を三角に吊り上げ、劇団にいる後輩から聞いた話をぶちまけた。

 誰も、俺の台本なんか待っちゃいないと言う。

 とっくに俺の才能は枯れ果て、別の、もっと若い奴のホンでやるべきだと、みんな陰で囁き合っている……ってさ。
 
 その空気は、うっすら俺も感じてた。

 だから、プレッシャーに圧し潰されても、ヒ~コラ、新作に挑戦していたんだ。駄目なら、もう芝居を捨てる覚悟で。
 
 キレたよ……あぁ、もう、何もかも分からなくなるくらい。

 言われた話は全部、ド正論。これっぽっちも間違っちゃいねぇ。でも、限界感じて足掻く奴に、トドメの台詞をぶち込む事は無ぇじゃんか。

 気がついたら、あいつを思いっきり壁へ突き飛ばしてた。

 腹を抑えてうずくまるアイツのワンピースから、床へ血が流れ出し……。

 俺、青くなって駆け寄った。

 そして真奈美は……キレてたんだろうな……あぁ、もう、何もかも分からなくなるくらい。

 側に落ちてた果物ナイフで、あいつ、俺の腹を突いたんだ。
 
 一度ならず、二度、三度……ハハッ、数えきれねぇ。

 大人しい女ほど一度、キレたら始末に負えないモンな。黒ひげ危機一髪のタルみてぇに俺、穴だらけの滅多突きさ。

 アパートの床は一面、血の海になった。

 俺の傷口からの出血と、突き飛ばされたショックで破水した真奈美の羊水と……。

 携帯電話で救急車を呼んだのはどちらだったか? 痛みで記憶がぼやけていて、それは判らない。

 遠のく意識の中で時間の感覚を喪失し、幽霊もどきになって病院をうろついた挙句、気がついたら新生児ICUの前にいたという訳だ。

 出産の直後、真奈美が息を引き取っていた事など知る由も無く……。





「霊安室に両親が来て、私の死体に手を合せながら、これからの葬儀の段取りや親戚への連絡について、色んな事を話した。先立つ話題はお金。リアルよね、凄く」

「ああ」

「人が死んだ時って、悲しみを感じるより、まず現実にどう対処するかが優先になっちゃう」

 真奈美の声も、妙に淡々としていた。

 その声を聞いて、自分の死を唐突に悟り、失意と絶望で呆然としていたのは、俺だけではないとやっと気付いた。

「二人の話のお陰で赤ちゃんがどうなったか知って、私、新生児ICUへ向ったの。で、途中の自販機の前、ボ~っとした顔のあなたが何か買おうとしてて」

「何も買えっこないのにな」

「笑っちゃったわよ、思わず」

「腹も立ったろ?」

「ん?」

「あれだけの事があったのに、俺は全部忘れてた。だから、俺を脅かし、追いまわしてやろうって気になったんだ。お前の死体や、死に掛けの俺の体を見せつけて、さ」

「……うん、それも少しはあったけど、何よりあなたに早く自分の立場を判って欲しかった」

「どうして?」

 真奈美は少し口籠り、ナースステーションの方を見た。
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