497グラム

ちみあくた

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「前にドラマで見た。いよいよ危なくなったら、医者が聞きに来るんだろ? 親として、延命治療を望むかどうか」

 真奈美はやっと俺の言葉に反応し、少しだけ顔をこちらへ向ける。

「……そうなったら、あなた、何て答えるつもり?」

「勿論、楽に死なせてやるつもりだよ。なんてったって俺の子だ。これ以上、苦しめたく無ぇもんな」

「俺の子? 良く言う! 本当は可愛いなんて、これっぽっちも思ってない癖に」

 いきなり真奈美が立ち上り、俺の襟元を掴んだ。

 片手で拳を握り、胸元を叩く。
 
 目がつり上がり、顔が真っ赤に紅潮して、手加減なしのド迫力だ。

「オイ、離せ! 苦しいじゃないか?」

「俺の子……あなたが言うと、何て軽く聞こえるんだろう? あなたの芝居の台詞と一緒、薄っぺらで誰の心にも響かない」

「お前、もう一回言ってみろ!」

 気がついた時には、俺は彼女の体を思いっ切り突き飛ばしていた。壁で背中を打ち、そのまま膝を折って、真奈美は身体をくの字にする。

 あぁ、又、やり過ぎた。

 そんな後悔が胸をよぎるが……でも、又ってのはどういう事だ?

 つい最近も、こんな事があった気がする。

 混乱する頭を強く左右へ振り回す内、この病院に来る直前の微かで朧げな記憶が甦ってきた。
 
 そうだ。俺はあの時も真奈美と口喧嘩になって、あいつを突き飛ばしたんだ。
 
 そして、その後に起った事は……。

 苦しげな呻きが聞こえ、俺がツレの方を見ると、彼女の下腹部辺り、無地の寝巻の帯から下が黒く染まり始めた。

 血だ。

 暗い廊下の照明に照らされて、深紅の血潮は黒く真奈美の寝巻を彩り、水滴が床へしたたる音がする。
 
 子供を早産した体が、突き飛ばされたショックで再び傷を開いたのか?

「オイ……ゴメン、大丈夫か?」

「人でなし……何を今更……」

 真っ青な顔で立ち竦む俺を見上げ、真奈美は唇を歪めて笑う。

「あの時の続きをするなら……ねぇ、あなた、どうして欲しい?」

 妻の言葉の意味が分からず、俺は只、得体の知れない恐怖に震えた。

「いっそ、引き裂いてあげようか? 八つ裂きにするのも良い。人でなしの中身、何が詰まってるか、わかるもん」

「真奈美……お前、一体……」

 狂ったように哄笑し、妻はよろける体を起こした。

 俺は足がすくみ、頭を抱えて冷たい廊下へ尻餅をつく。
 
 殺される、と素直に思ったよ。

 でも、違う。

 真奈美は俺への怒りどころか興味さえ失った様子で、そっぽを向いたかと思えば、手すりに凭れ、真っ暗な回廊の奥へ歩き出した。

 元来た方角、成人の入院病棟がある辺りへ向っているらしい。
 
 俺はICUの扉を振返った。

 誰も出て来る気配は無い。争う物音に加え、女の笑い声が響けば誰か出てきそうなものだが、実に静かだ。

 未熟児の治療に、余程、集中しているのだろうか?





 逃げ出すつもりで非常口の方へ走りかけ、俺は足を止めた。

 ここで放っておいたら……あいつ、意外と根に持つタイプだし……きっと、もっと厄介な羽目になる。
 
 取り敢えず俺は真奈美の後を追った。通路の床に点々と滴り落ちた血の跡があり、それを辿ってみる。

 只でさえふらついていた真奈美の足取りからして、すぐ追いつけると思ったのに、しばらく走っても彼女の後姿は見えなかった。

 ペタン、ペタンと素足の音だけ前方から聞こえ、時々、彼女の息遣いが血の匂いと一緒に流れてくる。

 入院棟へ向うと思った通路は途中で分岐し、足音の向う先は病院別館への渡り廊下に通じていた。

 外気に剥き出しの通路上、裸電球のソケットが風に当り、右へ、左へ……周囲の影を不安定に揺らめかせる。

 正直、寒いし、正直、怖い。
 
 余程、引き返そうかと思ったが、廊下の血だまりが尋常じゃない。流石に真奈美の体が気がかりだった。

 俺は確かに甲斐性無し。天下御免のろくでなしだよ。

 それは認めるけど、根性無しでも、人でなしでも無い。小なりと言えど、ずっと劇団を仕切って来たプライドって奴がある。それに、何より、あいつにビビッたと思われるのは癪だ。
 
 腹を据え、一気に渡り廊下を駆け抜けて、別館の扉を開く。
 
 長く糸引く血の跡はある奥まった一室へ続いていて、勢い付いたまま、俺は部屋の中に飛び込んだ。

 中には二つのベッドがあり……いや、可搬用の寝台だからストレッチャーって言うんだっけ?

 内一つに真奈美が寝ていた。

 顔に白い敷布をかぶせられ、消毒液っぽい臭いを漂わせて……。

「ずっと静かな所にいた」

 彼女の呟いた言葉が、脳裏に甦る。





 そりゃまぁ、確かに静かだろう。病院の霊安室なんて所は。





 言っておくけど、俺は霊とか魂とか、そんなの信じるタイプじゃない。仮に、百歩譲って有り得るとして、バケて出るなんて真奈美のガラじゃない。

 日頃、大人しい割にキレたら怖い。
 
 確かに、あいつのそういう性分は幽霊向きかもしれない。でも、ああも皮肉たっぷりに俺をなぶった上、首まで絞めてきやがった。
 
 普通、もう少し、風情あるもんじゃねぇの、日本の幽霊って奴は?
 
 こう、ス~っと背後から忍び寄ってな。しっとりと湿った声音で憎い男の耳元に息なんか吹きかけて、
 
「……ごめんなさい」

 まさにドンピシャのタイミングで、背後から真奈美の声がした。

 振返る代り、ストンと腰が落ちる。

 膝がガクガクして、這うようにドアの方へ向った。

「……ゴメンね、さっきは言い過ぎた。こうなったのも、お互いさまなのに」

「お、お互い様!? 何だよ、何でいきなり謝るんだ? 幽霊の癖しやがって」

「……違うわ」

「何が!?」

「私、幽霊なんかじゃない」

 ドアの握りを掴んで体を起こし、俺は恐る恐る声の方を振返った。

 真奈美は笑っている。
 
 何を企んでいるのか? 先程までの怒りはおくびにも出さず、衣服についた血も消えていた。
 
 汚れ無き白装束。横たわる自分の死体の隣で、暗い照明を浴びた俺のツレの姿は、仄かに青白く輝き、透き通って見える。

 「お前、ソレ……どう見たって、幽霊そのものじゃねぇか!?」
 
 大声で喚くや否や、俺は霊安室を飛び出し、病院内を逃げ回った。
 
 何しろ、相手は生身の人間じゃない。もう何でもアリだ。壁や障害物をすり抜け、気がつくと俺のすぐ側まで近付いて来る。
 
 あぁ、やっぱり恨みがあンじゃねぇか、お前?
 
 問い掛けても答えちゃくれないが……そりゃ、あるわな。子供の事を抜きにしたって、身に覚えは山程ある。
 
 遊ぶ金をせびって断られた挙句、つい手を上げてしまった事だって、一度や二度じゃない。
 
 認めるよ、俺は、最低最悪の亭主だった。これから何でもしてお前の菩提を弔うから、命だけは勘弁してくれ!
 
 そう叫んでも、真奈美は俺を追い詰めるのを止めない。振返ると、白く透き通る指先を物欲しげにこちらへ伸ばしている。

 引き裂かれちまう……いや、八つ裂きだっけ?

 誰に聞かれても、構うもんか。俺は大声で喚き散らし、回廊を逃げ惑ったが、誰も助けてくれず、非常口も見失ったまま。

 それにさ……うまいんだわ、真奈美の奴。

 落ち着いて判断する暇なんか、全然、与えちゃくれないんだ。
 
 逃げる俺の行く手を、時には先回りして塞ぎ、追い詰め、確実にある場所へと誘導していく。
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