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しおりを挟む「……何だよ、変な目で見ンなよ」
「いや、心配してくれてるんだ、と思って」
「当然だろ。それが意外?」
真奈美はフッと薄い笑みを浮べ、俺の横を通り抜けてベンチに座った。
ホントの所、俺達は内縁の間柄で、まだ籍を入れてはいない。
一緒に暮らして四年。何度も喧嘩し、何度も別れ話が出て、それでも別れきれない腐れ縁って奴だ。
「……あの子は?」
「ICUで治療を受けてる。ちょっと前に手術をして、その後はずっとここ」
「危ないの?」
「どうかな? 手術は成功したって聞いたけど」
真奈美は、ICUの鉄の扉を睨み、奥歯を噛み締めた。
「ねぇ、中の様子は?」
「そんなのわかる訳ないだろ? 医師や看護婦しか立ち入れない場所だぞ」
又、真奈美はキョトンとした眼差しを俺に向けた。親なら、無理にでも子供の容体を調べるべきだと言いたいのか?
安心させてやりたいが、俺が言えるのは、ほんの僅かな事柄だけだ。
言葉を選び、ポツリと呟く。
「俺さ……子供の顔、見たよ」
真奈美は俺から視線を逸らし、又、鉄の扉を見つめだす。
「ちっぽけでさ、弱々しくて、なんか……何と言うか、その……」
「人間に見えなかった?」
扉から目を離さず、冷めた声の響きで俺の心を突き刺す。真奈美は、確かに俺に対して苛立っているようだ。
後々の為、御機嫌をとっておく方が得策だろう。
「いや~、可愛かったわ、一応。俺の子だもん、見るだけで胸が熱くなると言うか」
「……嘘」
「嘘じゃね~よ、目が大きくてつぶらな感じ、ちょっとお前に似てて」
「殆ど目を開けないのに、つぶらも何もないじゃない」
真奈美は、チラリと横目で俺を見た。
「本当に可愛いと思った?」
「そりゃもう。ただ、さ」
「ただ……何?」
「何ンか、いかにもつらそうなのよ。体中に太い管突っ込まれて、小さく震えてンの」
「……そう」
「あのサイズで震えが判るんだから、実際は全身ガタガタ揺らしてんだろな。俺だったら絶対我慢できねぇ。実際、生きてるのが信じられない位で」
真奈美の瞳から皮肉めいた輝きが失せ、代りに苦悩の影が満ちる。
「生き残る可能性、どれ位あるんだろな?」
俺がそう訊ねると、真奈美はしばし沈黙し、胸の中で答えを探していた。感情的にならないよう、自分を律しているのだと思う。
何しろ、こいつの仕事は看護師だ。
俺より一つ年上で、31才。看護師としてのキャリアも10年近い。
母親という立場を離れれば、それなりに状況の正確な判断ができる筈だが、その分、口から洩れた言葉は一層重く響いてきやがる。
「可能性で言うとね、三割も無いと思う」
「つまり、七割死ぬって事?」
真奈美は頷かなかった。
三割無い……あいつの言い回しからして、実際には一割か、それ以下か……まぁ、十中八九死ぬのだろう。
別に今更驚かない。あの楕円形の不格好な頭を見た瞬間、素人の俺にも大体見えていた事だ。
「それなら、むしろ……」
ふと口から洩れた言葉に、俺のツレは鋭く反応した。
「むしろ、何!?」
「早く死んじまった方が、幸せかも」
思い切って本音を口に出すと、真奈美は俺を睨んで、すぐ小さな溜息をついた。
「どうせ、親が望んだ子じゃないものね。あなただけじゃない、私の両親まで心の底じゃあの子を厄介物だと思ってる」
抑えた声の奥、絶望と怒りが滾っている。日頃、物静かな分、真奈美が思い詰めた時には表情に妙な迫力が宿る。
「まぁ無理もないわ。もし、ICUで生き延びたら凄くお金が掛かるし」
「治療費の事?」
「それもあるけど、入院費だけだって馬鹿にはならない」
「お前、確か、俺に隠して、分娩費用を貯金したって言ったよな?」
「普通の分娩で、今は大体55万かかる。で、親にもお金を借りて70万ちょい用意したんだけど、全然足りないわ、それじゃ」
「へえ、子供を生むって、そんなに金が要るのかよ?」
「低く見積もって、の話よ! あなたにそういう相談した事ないものね。どうせ、お金の事じゃ役立たずだし」
「……そういう男と承知で、お前、俺とつきあった癖に」
「子供ができたら、少しは変わってくれるかと思った」
「悪いけど、俺、生れついてのアーティスト。小なりと言えど、下北で一座を構える劇団の座付き作家なんだからさ」
「赤字続きで、今にも潰れそうな劇団のね」
「おうよ! それがどうした?」
真奈美の言い方があんまり刺々しいモンで、俺もついキレた言葉を返してしまう。
まずいな。
深夜の病院で、それも新生児用ICUの扉の表で、夫婦喧嘩なんかしたくない。
でも一度、気持ちに火が付いたら真奈美は止まらないんだ。日頃、大人しい分だけ……火が付いたら、最後……。
「バカだった! もう、大バカだったわよ、私! できるものなら、あの日から全部やり直したい!」
「お前、つきあってくれたら苦労させないって約束したよな。看護師で稼いで、俺が芝居でメジャーになるまで、何が何でも支えるって言ったぞ、確かに」
「……昔は、それが私の夢だったの」
「今は?」
「今の私の夢は、あの扉の向こうで死にそうになってる」
激しい口調から一気に冷め、真奈美の言葉は最後は聞き取れないほど小さくなった。
哀れだと思う反面、奇妙な嫉妬が俺の中で湧き上ってくる。
ずっと俺の事だけ見つめていたのに。
初めて会った日、真奈美は俺のファンだと名乗って、舞台の打ち上げパーティに参加した。
下っ端劇団員の高校の先輩だそうで、最初は誘われて芝居を見に訪れ、その内、のめり込んでしまったのだと言う。
一緒に飲んで、酔っ払って、その日の内に俺達は寝た。
ファンと出来ちまうのは良くある話だ。
前にも何人かつまみ食いしたが、真奈美の側にいると妙に落ち着く。で、何時の間にか一緒に住むようになって四年。
避妊には結構気をつけていたつもりだ。それにピルを呑んでると彼女は言ってたのに、いきなり妊娠を告げられて……。
罠にはめられた、と正直思った。
そして、それ以来、二人の間を流れる空気は変わってしまった。
何をするにも反りが合わず、わだかまる喪失感が、言わなくて良い言葉を口から吐き出させる。
「……お前さ、十中八九死ぬ子に、夢を託しても虚しいだけだぜ。もう少し、現実を見た方が良い」
自分でも嫌になる位、俺の言葉は冷たく、暗い廊下に響いて聞こえた。
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