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しおりを挟むささやかな異変が起きたのは、二人の生活が始まって半年余りが過ぎた頃だ。
アパートの年老いた住民達が次々と立ち退き始めた。
他に行くあてなど無い筈なのに、慌ただしく賃貸契約を解除して、何処かの街へ消えていく。
その内、一組の老夫婦が立ち退きの挨拶に来た際、清子と全く目を合わそうとしなかったのも気になった。
「介護付きの老人ホームをお探しだそうですね」
「ええ、最近は私も家内も色々と不安になってきましたもので」
「でも今時、良い場所を見つけるのは大変じゃ有りません? 一つ間違うと、悪質な業者に足元を見られるかもしれない」
「はぁ、それはまぁ……」
「長年住んだ部屋に愛着があるとおっしゃいましたし、慌てなくて大丈夫」
「はぁ……」
「出過ぎたことを言うようですが、長いお付き合いじゃありませんか。もし、何か事情がおありなら、相談にのらせて下さい」
そんな伸二の問いかけに、まともな答えは返ってこない。
いつも通り優しく清子が茶など振る舞っても、触れかけた指先を遠ざける素振りが垣間見え、心なしか老夫婦が怯えている様に思えた。
玄関を出るまで彼らは俯きっぱなしで、そのまま足早に立ち去る後ろ姿が伸二の脳裏へ焼き付き、燻り続ける。
その年の秋には中年デイトレーダーだけが居残っている状況へ陥り、アパート経営は完全に破綻した。
最早、取り壊して更地にする為、退去を要請するしかない。
何かと先行きが不安な昨今、老後の蓄えを増やしたい、一刻も早く不動産を現金化すべきだと言う清子の言葉に反対する理由は見当たらなかった。
立ち退き交渉等、一切を彼女に任せ、それからしばらくの間、伸二は不動産処理に関わっていない。
取り壊し費用の足しにするべく薬剤師のパートに専念していたが、ある日、突然、件のデイトレーダーがドラッグストアを訪ねて来る。
まさか、殴り込み!?
思わず伸二は身構えた。
この手のトラブルが暴力沙汰に発展する話は幾らでもある。しかし、立ち退き要求に文句を言いたいのかと思えば、そうでもないようだ。
俺は一週間以内に引っ越す!とあっさり断言した後、既に退去した三組の事情を知っているか、と意味有り気に伸二へ尋ねた。
「あんた、立ち退かせる為に僕の妻が何かしたって言うのか!? 言いがかりにも程が有る」
声を荒げる伸二に、具体的な脅しがあったかどうかは知らん、とデイトレーダーは言葉を濁す。
だが、「あの女を怒らせたくない。絶対、怒らせない方が利口だよ」と、去り際に老夫婦は彼へ言い残したらしい。
「何を言っているやら、俺にも意味はわからなかった。でも先日、あんたの女房が直接、立ち退き要求をしに来た時、ようやく理解できたのさ」
尚も仄めかす口調で数日前の出来事を語る男の言葉に、内心で苛立ちながら伸二は耳を傾ける。
アパートの玄関へ足を踏み入れた時、清子はいつもの、いや、いつも以上の慈愛に満ちた笑みを浮かべたと言う。
ゴミが錯乱した六畳間にはフルタワーのPC、横幅の広い液晶モニターを載せたデスクがあり、デイトレーダーの仕事場にして、聖域だ。
奪われてたまるか、という気迫を込め、デスクを背にして睨みつけると、彼女は足元を指先で払い、優雅な仕草で腰を下ろす。
出された茶には手を付けず、一通り立ち退き条件を提示。デイトレーダーが首を縦に振らないと見るや、急に思い出話を始めた。
その内容は、婚活パーティの席で伸二が聞いたのとほぼ同じ初恋のエピソードである。
大願を抱く旅人に魅了され、夫婦になる約束をしたにも関わらず、欺かれ、捨てられ、何処までも追いかけると誓った……
伸二の時にはそこで一笑に付したが、この時は「誓った」と言う部分だけ、何度も繰り返したそうだ。
妙な迫力に圧倒され、聞く側が調子を合わせていると、清子はふと窓の外の夕焼けを見上げた。
「あれからね、私、誰かに大事な気持ちを邪魔されると、どうにも我慢できなくなるんです」
そう呟く女の頬が、大きく西へ傾いた夕日を反射し、赤く火照って見えた。
「良く言うでしょ? 人の恋路を邪魔するものは……どんな末路を辿ったとしても、自業自得だと思いません?」
こちらを向く瞳が潤み、年齢を超越した艶やかさを感じる。
美魔女って、こういうのを言うんかな?
呑気な事を考えたのも束の間、すぐ彼の全身に寒気が走り、総毛だったと言う。
「たとえ、あなたに何が起きたとしても……怪我をしても、死んでも……私は全然、悪くない」
ゆっくり言い放ち、目を細めた瞬間、清子の瞳孔が、爬虫類独特の細い縦の線へ変わった。
無造作に、まだ口を付けていない茶碗を投げる。
デイトレーダーのこめかみを掠め、直撃した液晶ディスプレイがデスクから落下、割れた茶碗とプラスチックの破片が派手に床へ飛び散った。
その大きな音が男を竦ませ、優位に立った女の頬から優しげだった面持ちは消え失せている。
「あ~ら、あぶない。あなた、お怪我は有りません?」
一転、歪んだ嘲笑を清子は浮かべた。その口元から二股に裂けた真っ赤な舌先が長く伸びて、笑う度に左右へ揺らめき……
「いやぁ、蛇に呑まれる蛙の気分だったね、あん時ゃ」
恐怖の記憶が蘇ってきたのだろう。デイトレーダーは額に浮かんだ脂汗を拭い、苦笑した。
「そりゃ、彼女が化け物に見えたのは俺の気のせいだろうさ。光の加減とか、錯覚とか、人が蛇になる訳、無ぇもんな」
伸二も笑い飛ばしたい気分だった。それなのに、何時の間にか、目の前の男より多くの汗を全身に滲ませている。
「まぁ、何にせよ、凄ぇ迫力だったよ。こりゃ年寄りの夫婦じゃ逆らえねぇ。俺もさっさと逃げ出そうって腹を決めたんだ」
「そんな話を、何故、僕に?」
額の汗を拭った後、頭の毛をしばらく掻きむしり、彼はしばらく答えに迷っていたが、
「人が良過ぎるあんたの親に、俺も、死んだおふくろも、随分良くしてもらったからな。やばい女の情報、出ていく前に集めてやろうと思ってさ」
言い終わるや否や、A4の紙袋に入った資料の束を強引に伸二の胸元へ押し付け、男は去って行った。
ひどく足早で、一度も振り返ろうとはせずに。
残された資料を見ると、清子に良く似た女のオリジナル料理を紹介するSNSの画面がプリントアウトされ、入っている。
但し、アカウントの名義は清子ではなく「キヨヒメ」。
投稿したのが清子本人か、否か、を確かめようとSNSをスマホで検索してみたら、既にアカウントは削除されている。
伸二はドラッグストアを早退して資料の束を読み漁り、その最後のページに添付されている興信所の調査記録を見つけた。
内容は衝撃的だ。
「キヨヒメ」なるハンドルネームの持主は、彼女のSNSへ興味を持ち、フォローした男性に自らアクセス。経歴を詐称し、結婚詐欺の犯行を重ねたと言うのである。
その上、証拠不十分で起訴されなかったものの、保険金を掛けて旧夫を殺害した容疑まで掛けられたらしい。
伸二の中で、信じたくない気持ちと妻への疑惑が同時に膨らんだ。
居ても立ってもいられずに結婚相談所へ押しかけた結果、登録されていた彼女のプロフィールは何もかも眉唾だった事が判明する。
結局、清子と言う女は何者なのか?
今も捨てがたい愛情を抱き続けている以上、キヨヒメとの関係も含め、本人に訊くしかないと思った。
でも、中々、覚悟が決まらない。
デイトレーダーから預かった資料を隠し、どう切り出そうか思案を巡らす内、時間だけが過ぎ……
ある日、清子が作った夕食を食べている内、目の前が真っ白になった。
そして、気が付くと居間の床へ灯油が撒かれ、全身麻痺状態で、ライターを弄ぶ清子に殺されかけていたのだ。
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