26 / 26
第一章
第26話 川倉の策
しおりを挟む
春の霧が川面を覆う早朝。
長良川の水は静かに流れ、岸辺の葦がかすかに揺れていた。
その川沿いに、木造の大きな倉が並んでいる。
兵糧倉。
稲葉山城の兵糧を蓄える重要な場所だった。
米俵が山のように積まれ、足軽が数人、槍を持って見張りをしている。
だが――
守備は多くない。
(やはり薄い)
川向こうの木陰から、その様子を見ている女がいた。
望月梓。
織田信長の密命を受けた密偵である。
梓は半透明のボードを開いた。
誰にも見えない光の板。
そこには情報が整理されている。
・兵糧倉 三箇所
・城内倉 守備厚
・北倉 中程度
・川倉 守備薄
梓は静かに頷いた。
「ここね」
この川倉こそ、稲葉山城の弱点。
山城は強い。
だが兵糧が尽きれば終わる。
そして兵糧は山ではなく――
川に集まっている。
その時、後ろから声がした。
「おや」
梓は振り向いた。
そこに立っていたのは、農夫姿の男。
しかしその目は鋭い。
蜂須賀小六。
織田信長の配下であり、川の者たちをまとめる人物である。
「無事でしたか」
小六は小声で言う。
梓は頷いた。
「ええ」
「見ての通り」
小六は川倉を見た。
「兵は少ないな」
「昼は十人ほど」
「夜は五人」
小六は口元を歪めた。
「取れるな」
梓は首を振った。
「まだ」
「まだ?」
「城を落とすには早い」
梓は静かに言う。
「今やるべきは、兵糧を断つ準備」
小六は腕を組んだ。
「どうする」
梓は川を見つめる。
「商人を使う」
「商人?」
「米を運ぶのは商人」
つまり。
兵糧の流れを操れる。
小六は笑った。
「なるほど」
「戦わずに兵糧を減らすか」
梓は頷いた。
「少しずつ」
「誰にも気付かれないように」
その日の昼。
稲葉山城下の市。
梓はいつものように店を広げていた。
そこへ三人の商人が近づく。
米商人。
油商人。
そして塩商人。
彼らは梓の情報網の一部だった。
「例の話」
米商人が小声で言う。
「運ぶ米を少し減らす」
「可能?」
米商人は頷く。
「俵の中を少し抜く」
「重さは変わらない」
梓は微笑んだ。
「いい方法ね」
油商人が続ける。
「それと」
「川倉の見張り」
「酒好きだ」
梓の目が細くなる。
「そう」
塩商人が言う。
「夜はよく酒を飲む」
つまり。
警戒が緩む。
梓は静かに頷いた。
「ありがとう」
その時だった。
「店主」
聞き慣れた声。
振り向くと――
竹中半兵衛。
若き軍師。
今日も静かな目で梓を見ている。
「繁盛していますね」
「ええ」
梓は微笑む。
「今日は何を?」
「薬を少し」
薬瓶を渡す。
半兵衛はそれを受け取りながら言った。
「最近、兵糧の運びが増えています」
「そうですね」
「商人は大変でしょう」
梓は肩をすくめる。
「商売ですから」
半兵衛はじっと梓を見る。
「あなた」
「本当にただの商人ですか?」
またその質問。
梓は笑った。
「ただの商人ですよ」
半兵衛は少し考えた後、静かに言った。
「この城は、もう長くない」
梓の手が止まりそうになる。
だが表情は変えない。
「なぜ?」
半兵衛は空を見た。
「殿は孤立している」
「家臣は不満」
「民も不満」
そして一言。
「そこへ」
「織田信長」
半兵衛は苦笑する。
「勝てる気がしない」
それは敵国の軍師とは思えない言葉だった。
梓は静かに言う。
「戦は分からないものです」
「ええ」
半兵衛は頷いた。
「ですが」
「もし織田信長が攻めてきたら」
「この城は変わるでしょう」
意味深な言葉を残し、彼は去った。
夜。
宿の部屋。
梓は半透明ボードを開いた。
報告作成。
宛先。
織田信長。
内容。
・川倉守備薄
・商人協力
・兵糧削減開始
送信。
その頃。
尾張の那古野城。
織田信長は報告を読んで笑った。
「面白い」
隣にいる柴田勝家が尋ねる。
「何かございましたか」
信長は言う。
「兵糧が減る」
「戦う前に城が弱る」
勝家は驚いた。
「なんと」
信長は空を見上げる。
「戦は始まっている」
まだ軍は動いていない。
だが。
商人。
兵糧。
情報。
すべてが動き始めている。
遠く稲葉山城。
その城を見上げながら、梓は静かに呟いた。
「次は」
「城の中」
兵糧の糸は掴んだ。
次に動かすのは――
城の人間。
戦国の歴史は、静かに崩れ始めていた。
長良川の水は静かに流れ、岸辺の葦がかすかに揺れていた。
その川沿いに、木造の大きな倉が並んでいる。
兵糧倉。
稲葉山城の兵糧を蓄える重要な場所だった。
米俵が山のように積まれ、足軽が数人、槍を持って見張りをしている。
だが――
守備は多くない。
(やはり薄い)
川向こうの木陰から、その様子を見ている女がいた。
望月梓。
織田信長の密命を受けた密偵である。
梓は半透明のボードを開いた。
誰にも見えない光の板。
そこには情報が整理されている。
・兵糧倉 三箇所
・城内倉 守備厚
・北倉 中程度
・川倉 守備薄
梓は静かに頷いた。
「ここね」
この川倉こそ、稲葉山城の弱点。
山城は強い。
だが兵糧が尽きれば終わる。
そして兵糧は山ではなく――
川に集まっている。
その時、後ろから声がした。
「おや」
梓は振り向いた。
そこに立っていたのは、農夫姿の男。
しかしその目は鋭い。
蜂須賀小六。
織田信長の配下であり、川の者たちをまとめる人物である。
「無事でしたか」
小六は小声で言う。
梓は頷いた。
「ええ」
「見ての通り」
小六は川倉を見た。
「兵は少ないな」
「昼は十人ほど」
「夜は五人」
小六は口元を歪めた。
「取れるな」
梓は首を振った。
「まだ」
「まだ?」
「城を落とすには早い」
梓は静かに言う。
「今やるべきは、兵糧を断つ準備」
小六は腕を組んだ。
「どうする」
梓は川を見つめる。
「商人を使う」
「商人?」
「米を運ぶのは商人」
つまり。
兵糧の流れを操れる。
小六は笑った。
「なるほど」
「戦わずに兵糧を減らすか」
梓は頷いた。
「少しずつ」
「誰にも気付かれないように」
その日の昼。
稲葉山城下の市。
梓はいつものように店を広げていた。
そこへ三人の商人が近づく。
米商人。
油商人。
そして塩商人。
彼らは梓の情報網の一部だった。
「例の話」
米商人が小声で言う。
「運ぶ米を少し減らす」
「可能?」
米商人は頷く。
「俵の中を少し抜く」
「重さは変わらない」
梓は微笑んだ。
「いい方法ね」
油商人が続ける。
「それと」
「川倉の見張り」
「酒好きだ」
梓の目が細くなる。
「そう」
塩商人が言う。
「夜はよく酒を飲む」
つまり。
警戒が緩む。
梓は静かに頷いた。
「ありがとう」
その時だった。
「店主」
聞き慣れた声。
振り向くと――
竹中半兵衛。
若き軍師。
今日も静かな目で梓を見ている。
「繁盛していますね」
「ええ」
梓は微笑む。
「今日は何を?」
「薬を少し」
薬瓶を渡す。
半兵衛はそれを受け取りながら言った。
「最近、兵糧の運びが増えています」
「そうですね」
「商人は大変でしょう」
梓は肩をすくめる。
「商売ですから」
半兵衛はじっと梓を見る。
「あなた」
「本当にただの商人ですか?」
またその質問。
梓は笑った。
「ただの商人ですよ」
半兵衛は少し考えた後、静かに言った。
「この城は、もう長くない」
梓の手が止まりそうになる。
だが表情は変えない。
「なぜ?」
半兵衛は空を見た。
「殿は孤立している」
「家臣は不満」
「民も不満」
そして一言。
「そこへ」
「織田信長」
半兵衛は苦笑する。
「勝てる気がしない」
それは敵国の軍師とは思えない言葉だった。
梓は静かに言う。
「戦は分からないものです」
「ええ」
半兵衛は頷いた。
「ですが」
「もし織田信長が攻めてきたら」
「この城は変わるでしょう」
意味深な言葉を残し、彼は去った。
夜。
宿の部屋。
梓は半透明ボードを開いた。
報告作成。
宛先。
織田信長。
内容。
・川倉守備薄
・商人協力
・兵糧削減開始
送信。
その頃。
尾張の那古野城。
織田信長は報告を読んで笑った。
「面白い」
隣にいる柴田勝家が尋ねる。
「何かございましたか」
信長は言う。
「兵糧が減る」
「戦う前に城が弱る」
勝家は驚いた。
「なんと」
信長は空を見上げる。
「戦は始まっている」
まだ軍は動いていない。
だが。
商人。
兵糧。
情報。
すべてが動き始めている。
遠く稲葉山城。
その城を見上げながら、梓は静かに呟いた。
「次は」
「城の中」
兵糧の糸は掴んだ。
次に動かすのは――
城の人間。
戦国の歴史は、静かに崩れ始めていた。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
欠席魔の公爵令嬢、冤罪断罪も欠席す 〜メイリーン戦記〜
水戸直樹
ファンタジー
王太子との婚約――それは、彼に恋したからでも、権力のためでもなかった。
魔王乱立の時代。
王も公爵も外征に出ている王都で、公爵令嬢メイリーンは“地味な婚約者”として王城に現れる。
だが、王太子は初顔合わせに現れなかった。
にもかかわらず、記録に残ったのは「公爵令嬢の欠席」。
抗議はしない。
訂正もしない。
ただ一つ、欠席という事実だけを積み上げていく。
――それが、誰にとっての不合格なのか。
まだ、誰も気づいていない。
欠席から始まる、静かなるファンタジー戦記。
女神様、もっと早く祝福が欲しかった。
しゃーりん
ファンタジー
アルーサル王国には、女神様からの祝福を授かる者がいる。…ごくたまに。
今回、授かったのは6歳の王女であり、血縁の判定ができる魔力だった。
女神様は国に役立つ魔力を授けてくれる。ということは、血縁が乱れてるってことか?
一人の倫理観が異常な男によって、国中の貴族が混乱するお話です。ご注意下さい。
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる