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放課後の個別指導

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 女の子と2人きりで勉強を教えるなんて、もちろん初めてだ。僕はこれからデートをするような気分だった。実際にはしたことがないので、"デートをする気分"なんて知らないのだが。

 クラスメイトはそれぞれの目的地に向かって教室を出ていった。僕は帰る準備に手間取っている振りをしながら席に座っていた。教室から人の気配がなくなった頃に彼女の方を見てみると、あの笑顔で僕に向かって小さく手を振っていた。彼女は教科書や筆記用具を大事そうに抱え、僕の左の席までやって来た。
「隣、座っていい?」
「いいよ。」
僕の席ではないので勝手に許可して良いのかは分からないが、彼女に座られて悪い気がする人間はいないだろう。

 7月中旬の猛暑日で、外ではセミが鳴いていた。
 彼女は僕の左隣に座ると、「暑いね」と言いながら下敷きで首の辺りを仰いでいた。仰いだ風がこちらにも届くと、彼女の髪は花のような香りがした。また鼓動が速くなった。
「実はね、数学のテストを返された時に、あなたの点数が見えちゃって。」
「そうなんだ。」
「ごめんなさい。盗み見するつもりはなかったの。」
「構わないよ。」
それからお互い教科書やノート、筆記用具などを準備した。
「君は苦手なものなんて無いのかと思ってたよ。」
「そんなことないわ。暗記は得意だけど、数学みたいな応用する科目は苦手なの。」
「そうなんだ。」
彼女にも苦手なことはあるらしい。

"人は不完全だからこそ美しい"
ふとその言葉を思い出した。

「あとは朝起きることとか、虫とか、お化け屋敷も苦手よ。」
可愛い。
やはり"完全"な女の子らしい人だと思った。
 そうして僕の個別指導が始まった。緊張は先ほどより薄れ、僕は落ち着きを取り戻していた。それでも彼女が僕のノートを覗き込むように顔を近づけてくる時には、やはり鼓動が速くなった。また花の香りがした。
 三角関数の応用問題を終えたところで僕らは休憩した。彼女はまた下敷きで首元を仰ぎながら言った。
「あなたは数学が得意なのに、どうして文系にしたの?」
「楽そうだからだよ。」
「そうなんだ。」
彼女は少し笑って前を向いた。
「私ね、あなたたが優しい人だってこと知ってたよ。」
僕の顔が熱くなる。
「どういうこと?」
「うーん。」
彼女は髪を触りながらしばらく考えていた。
「内緒。」
彼女は時々こういう話し方をする。それも人を惹きつける理由の1つなのだろう。
 それから30分ほど数学を教えた頃、僕の授業は終了した。荷物をまとめ、僕らは並んで1階に降りていった。
「今日は本当にありがとう。」
彼女は僕の目を見つめながら言った。
僕は目を逸らしながら答えた。
「構わないよ。」
 グラウンドに近づいたところで、彼女は自動販売機を指差した。
「お礼に何か奢るよ。」
「気にしなくていいよ。」
「いいから1つ選んで。」
彼女は小銭を入れながら言った。
「それじゃあ、いただくよ。」
僕はブラックの缶コーヒーを選んだ。
「やっぱりね。」
「どういうこと?」
「何でもないわ。」
 やはり彼女は意味深なことを言う。その度に僕は悩まされる。
 彼女はバス通学で僕は自転車のため、彼女のバス停まで一緒に歩くことになった。しばらくの間、お互い黙ったまま並んで歩いた。
 彼女の隣を歩いてみて気づいたのだが、僕らは20センチほどの身長差があった。僕の肩くらいの高さに彼女の頭があるので、彼女が僕の顔を見る時はいつも上目遣いになった。その度に僕の顔は熱くなった。
「私達って似てると思わない?」
また彼女は不思議なことを言った。
「そうかな?真逆だと思うけど。」
その話はここで終わった。
 そこからは学校や趣味のことなど他愛のない話をしながら歩いた。彼女はディズニーが好きらしい。僕はテーマパークのスタッフのような彼女の姿を思い出した。
 彼女のバス停に着くと、ほぼ同時にバスが来たので僕らは解散することになった。
「今日は本当にありがとう。」
「構わないよ。」
「また明日ね。」
「うん。また明日。」
そう言って彼女はバスに乗り、一番後ろの席に座った。バスが発車すると、彼女はいつもの笑顔で僕の方に小さく手を振った。僕も ぎこちなく手を振り返した。小さくなっていく彼女の姿を眺めてから、僕は自転車に乗り帰路についた。
 僕は帰宅してベッドに横たわると、ぼんやりと彼女のことを考えていた。その日は1階の猫を撫でることも忘れていた。
 夕食を終えて再び部屋に戻ると、携帯に1件のメッセージが入っていた。
 彼女からだった。
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