猫をなでるだけの日々

道端ノ椿

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高校編

三話「天使と小悪魔」

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 最初より緊張は薄れたが、綾《あや》が僕のノートを覗《のぞ》き込むたびに心を乱される。その接近は、わざとなのだろうか?
 好きな人にいつでも触れられるのに、届かない――こんなに辛いことはないと思う。

 僕は必死で綾を意識していないふりをした。しかし、言葉がまとまらず、あべこべな教え方をしてしまう。僕の動揺は明らかだった。



 三角関数の応用問題を終えて休憩することに。綾は爽やかに水を飲み、また下敷きをうちわにして胸元をあおいだ。

「あなたは数学が得意なのに、どうして文系にしたの?」

 綾は下敷きでぽわぽわと音を出して遊んでいる。

「楽そうだからだよ」

「そうなんだ……」
 綾はうっすらと微笑んだ。
「わたし、あなたが優しい人だってこと知ってたよ」

「えっ!?」と僕は変な声を出した。
ってどういうこと?」

「うーん」
 綾は髪をくるくると指で巻いた後、「ないしょ」と言ってウインクした。

 胸がざわついた。やはり、彼女には届かない。しばらく考えたが、僕の優しい場面は一つも思いつかなかった。
 綾は僕を惑わせておきながら、何気なく手鏡を取り出して前髪を整えた。こうしてはぐらかされた以上、僕に追求する勇気はない。結局、未解決のまま勉強を再開することになった。



 僕はあの〈悪魔の綾〉を忘れるほどリラックスしていた。そうやって人の心をほぐせるのも、彼女の力だろう。

 次第に勉強よりも雑談が増え、名残り惜しく放課後の個別指導は幕を閉じた。

「今日は本当にありがとう」
 綾は僕の目を見つめた。お礼を言うべきなのは僕の方なのに。

 靴を履き替えて下駄箱を出ると、綾は無邪気に自動販売機を指さした。
「お礼に何かおごるわ」

「気にしなくていいよ」

「ほら、遠慮しないで」と綾も引き下がらず、五百円玉を入れて僕を手招きした。
「ひとつ選んでよ」

「それじゃあ、お言葉に甘えて」

 僕がブラックコーヒーのボタンを押すと、なぜか綾はクスクス笑った。
「やっぱりね」

「どういうこと?」

「何でもないわ」
 綾はゆっくり首を振った。美しい黒髪も心地よく揺れた。そうやって彼女はまた、僕の心をいたずらにもてあそぶのだ。

 綾がカフェオレを買うと、僕たちは学校を背にして歩き始めた。斜陽に照らされたアスファルトが、長い影を落としている。
 僕は自転車を押しながら、茜色に染まった彼女の横顔を見つめた。そして、好きな女の子と下校する幸福を味わった。

「ねえ」
 綾は横から僕の顔を見た。
「わたしたちって、似てると思わない?」

 彼女が不思議な発言をするたびに、僕は頭を悩ませる。

「そうかな? 真逆だと思うけど」

 やはり綾からの説明はなく、また僕の心に彼女の住処すみかを増やされる。

 その後は、他愛のない話をしながら歩いた。彼女はディズニーが好きらしい。僕の統計上、綾のように天真爛漫な女の子は、みんなそろってディズニーファンなのだ。
 無情にも幸せな時間は過ぎる。バス停に着くと、すぐに綾が乗るバスが来てしまった。

「今日は本当にありがとう」
 綾は穏やかな笑顔を浮かべ、小さくお辞儀した。
「すごく楽しかったわ」

 楽しかった?

「こちらこそ」

 僕は思わず目をそらした。女の子と目を見て話すのはこんなに恥ずかしいのか。

「それじゃあ、また明日。学校でね」

 綾はバスに乗り込み、一番うしろの席に座った。彼女が小さく手を振ると、僕もぎこちなく振り返す。ただ一日が終わるだけなのに、まるで一生が終わるような喪失感が胸に残った。
 僕は帰宅するとそのままベッドに倒れ込み、今日の思い出に浸った。店の猫を撫でるのも、すっかり忘れていた。

 夕食をとって部屋に戻ると、スマホには一通のメッセージ。なんと綾からだった。僕は深呼吸して、恐る恐るトーク画面を開くと――――

『友だちではないユーザーから、メッセージが届きました』

 その注意書きはあくまでアプリの話だが、「僕と綾は友達にすらなっていない」という宣告に落胆した。僕は友達の許可(偉そうな言い方になってしまうが)をして、本文に目を通す。

『クラスのグループに入ってたから、勝手に連絡しちゃった。今日は本当にありがとう』

 綾のメッセージには、適度に絵文字がついている。僕は家中を歩き回り、十分後にようやく送信した。

『構わないよ。また何かあれば協力するから』

 ほっと一息つくと、送信から一分後に返事が届いた。メッセージというのは、こんなに早く返ってくるのか。

『申し訳ないけど、今度は生物を教えてくれない?』

 嬉しさと同時に、「なぜ自分なんかに頼むのだろう?」という疑問が再び浮かぶ。

『もちろん、僕でよければ』

綾『ありがとう! いつが都合いいかな?』

『僕はいつでもいいよ』

綾『それなら、明日はどう?』
 
『問題ないよ』

綾『ありがとう! じゃあ、放課後の教室で。また明日ね!』

 これは僕にとって、生まれて初めての恋愛だ。生きる意味も忘れた自分が人を好きになるなんて。
 気持ちは高ぶり、ベッドに入ってから眠るまでに一時間ほどかかった。


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