猫をなでるだけの日々

道端ノ椿

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高校編

五話「あの約束」

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 ホームルームであやが休みだと聞いた瞬間、首筋に嫌な汗がにじんだ。僕が綾を泣かせたせいだ。絶対そうだ。今すぐこの場から逃げ出して、布団に潜りたい。

 廊下を歩いていた女子たちは、僕の隣で綾が泣いたことを言いふらすだろうか。もしそうなれば、僕は絶望のふちに立たされるだろう。
 せっかく見つけた綾の隣という陽だまりも、氷のようにくだけ散ってしまうのだ。

「僕は悪くないよね?」
 家の猫を撫でながら話しかけてみた。あるいは、自分に言い聞かせたのかもしれない。
 今日は珍しく、黒猫の〈あずき〉が床に降りて、僕の足にすり寄る。おしとやかに鳴くと、すぐにキャットタワーを登り、定番の穴に入って影になった。



 翌日の金曜日、デートの前日である。僕は教室に入るなり、綾の席に目を向けた。幸いにも彼女は登校していたので、僕は胸をなでおろす。
 大勢の男女が綾の机を囲み、心配の声をかけている。なぜかそれが気持ち悪く思えた。僕は興味がないふりをしつつ、必死で耳をそばだてた。

「心配かけてごめんなさい」と綾は周りに言った。
「微熱が出てたけど、もう治ったから大丈夫よ」

 群衆の隙間から彼女の通常運転を見て、僕は改めて安心した。
 ところが、休み時間に綾と廊下ではち合わせると、彼女は目を逸らして立ち去った。僕は綾に心配したと伝えるべきか、謝るべきか、それとも普段通りに接するべきかと考えるうちに、彼女は視界から消えていた。

 次第に僕は、デートの約束が現実なのか疑い始めた。どこにも記していないので、確かめようがないのだ。
 しかし、それも夜になればわかることだ。もしも約束が本当なら、律儀な彼女は連絡をくれるだろう。

 僕は無意識に、不安を振り払おうとしていた。学校帰りに、何となく近所の図書館に寄り道し、ただ館内を一周した。
『この世には僕の知らないことが沢山あって、それは喜ばしいことだ』という見識を得た。

 帰宅してスマホを開くと、一件のメッセージが届いていた。
『明日のことだけど、待ち合わせの場所と時間はどうする?』
 待ち焦がれていた綾からのメッセージだ。僕は必死に頭を回転させて返信した。

『十二時に、駅前のコンビニはどうかな?』

『そうしましょう! じゃあ、また明日。楽しみにしておくね』

 

 綾は前にもそう言っていたが、いまだに信じられない。

『彼女の言動は、思わせぶりな演技だ』
 そう自分に言い聞かせてみる。しかし、どうしても『僕に気があるのでは?』という自惚れた絵空事を振り払えなかった。

 今さらだが、僕は明日、綾とデートするのだ。そう思えば思うほど、緊張と興奮が増していく。そして、僕は一睡もできずに当日の朝を迎えた。



 僕はひとまずエナジードリンクを飲む。次に、熱いシャワーを浴びて眠気を吹き飛ばす。それからなるべく大人っぽい服を着て、緊張に呑まれながら、待ち合わせの駅に向かった。
 すずめがアスファルトの上を軽快に跳ねている。彼らは、僕がこれから人生初のデートに行くことなんて知らないのだ。

 駅前のコンビニに着いたのは、約束の二十分前。綾の姿はまだ見えない。じっとしていても緊張が増すばかりなので、僕は商店街に入った。

 途中で、幸せそうに手を繋いで歩く若い男女が目に止まった。その光景を見て、『僕も綾の手を握りたい』という欲望が湧き上がってきた。
 好きな人と手を繋ぐというのは、どんな感じだろう?
――いや、思い上がってはいけない。
 今日は、綾が行きたかった喫茶店に付き添うだけだ。そして僕が選ばれたのは、ただ〈無害で都合のいい男〉だからだ。

 駅前の花壇を眺めていると、改札口から綾がやって来た。僕は私服姿を初めて見たので、彼女が目の前に来るまで気づけなかった。
 綾はセミロングの黒髪をアイロンでふんわりさせ、ナチュラルな化粧をしていた。ノースリーブの白いブラウスを着て、スカートとサンダルとバッグは茶色で揃えている。

 綾は僕に気づくと、手を振りながら早足で歩いてきた。右手首には黒の細いブレスレット、左にはクラシックな腕時計。

「お待たせ」
 綾は無邪気な笑顔を見せた。僕は彼女の美しさに面食らい、何も言葉が出ない。

「もう、そんなに見られたら恥ずかしいじゃない」
 綾は自分のコーディネートをチェックする。僕はノースリーブの服から露出した綾の腕に視線がいってしまい、そのたびに自分を律した。

「行きましょう?」
 綾は商店街の方へ踏み出した。

 正直、彼女のとなりを歩くことには慣れ始めていた。しかし、今の僕は耐え難い緊張に襲われている。学校の帰り道とプライベートで、こんなに違うものだろうか?

 商店街の裏道を進んでいくと、不気味な細路地が現れた。壁にはスプレーの落書き、足元に散乱するゴミ。左右に廃墟のような建物が立ち並んでいる。

「こういう道は平気なの?」と僕はいてみた。

「うーん」
 綾は周囲を見渡した。
「好きでもあるし、嫌いでもあるわね」

「どういうこと?」

「不潔とか怖いのは嫌だけど、そんなふうに世界のリアルを感じられるから好きなの」
 綾は僕の顔を見た。
「こういうのって変かな?」

「いや、わかる気がするよ」と僕は言った。
「どんなものにも二面性がある。人はきれいなものだけを見たがって、汚いものから目を背けようとする。まったく、みにくい生き物だよ、人間なんて。まあ、僕もそのひとりなんだけどさ」

 綾はおかしそうに笑い、僕のほおをつついた。
「またそんなこと言って。わたしが泣いちゃうわよ?」

「ごめん。つい口が滑ってしまった」

「でもね」
 綾は路地裏の狭い空を見上げた。
「わたしもそう思ってたの」

 綾は色っぽいホワイトムスクの香水をつけていた。彼女のおかげで、の中にいても、たまにオアシスを見つけられる。

 不気味な細道をようやく抜けると、老舗の飲食店がちらほらと現れた。綾は古い喫茶店の前で立ち止まり、僕の顔を見た。
「ここよ。入りましょう?」


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