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一日目 閉ざされた扉の先に
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静寂が支配する、殺風景な部屋。無機質な壁に囲まれ、まるで世界から切り離されたかのように沈黙していた。薄暗い部屋の中心に、二脚の簡素な椅子とその間にこれまた簡素な机が置かれた他には特筆すべきものはない。片方には拘束された一人の男が座っていた。その男の名は無銘。国家にとって現状最も危険な反乱者の筆頭。冷静さとその計画の緻密さそして正確さ、どれを取ってもレベルの高い仕事をする国家を苦しめる大罪人である。
その静けさの中、音が鳴る。
誰かが扉を開けた音であった。そしてその者の歩みが部屋の静寂を断ち切って響く。
「初めまして。大罪人さん。僕は氷雨。君の尋問を執り行う者として任命された。よろしく」
無銘の向かいで止まるとそう言った。笑みを携えてはいるもののどこか事務的な声音。氷雨が無銘に視線を向ける。無銘は目が合うとふわっと笑った。そして視線を逸らすこともなくただまっすぐに氷雨を見ている。
この部屋に似合わない笑み。その笑みを見た一瞬、心臓を指先でそっと撫でられたような奇妙な感覚があった。彼とは面識などないことはわかりきっている。刹那だけれども鮮明に違和感を感じたような気がした。
だが、表情を崩すことなく話を続ける。
「無銘だよね? 自供してくれると大変助かるんだけど、君はどうする?」
乾いた笑いが返ってくる。
拘束されているというのに、その表情は余裕に満ちている。国家転覆を企てた大罪人。捕まれば死は免れない。にもかかわらず、この男はまるで尋問室の空気を楽しんでいるようにさえ見えた。
「そうです。僕は無銘。あなた方が追っている大罪人は僕のことです。ですが、自供するとなると話は変わってきます。僕のことをご存じであるなら、性格もある程度は知っているのではないです?」
「なるほど。確かにこんな些細な問いかけで君が自供するなら、僕はここに呼ばれてない。まあでも、僕は君に関してそこまで情報は持ち合わせていないね。君たちの反逆行動、国家転覆に対する情報もそこまで重要そうなのを部下は引き出せなかったし、君たちの組織の情報さえ掴めないままだったのに君が捕まったから」
椅子を引いて腰掛けながら、軽い調子で自供を促すも返事は当たり前のごとく否だった。
氷雨はその返答に対してなんとも思っていない。ただの世間話の延長くらいのテンション感。
二人の会話はお互いに殺気や威圧は感じられない。無銘が拘束されていること以外は、詳細を知らない人が見れば、仲の良い集まりくらいだなと思うような軽快さである。
それもそのはず、氷雨は尋問官としては異質な存在だった。彼の年齢が20歳にも満たないことも理由のひとつではあるが、異質であることの根幹は他にあった。他の尋問官は尋問をする。相手は犯罪者。無罪であるものやそれに近しいものは尋問官へと回される前に弾かれる。そのため情報を聞き出すためには手段を問わないものが多い。残虐非道。その言葉が当てはまる行為で尋問官は尋問という任務を遂行する。しかしながら氷雨は違った。尋問官として高い地位にいながら彼の手で行われた尋問に他の尋問官のような筆舌に尽くしがたい尋問は含まれてなかった。尋問官として異端。そのような立ち位置にいながら彼が上に立てるのはその尋問の成功率であった。彼が担当した尋問で収穫がなかったことはなく、しかもその情報の正確性、そして重要性は誰もが認めるもので、彼がどんな尋問をしようとどんな行動に出ようと文句を言う手合いはいない。そのような批判をするものは結果で黙らせてきた。
この尋問も氷雨にしか任せられないと上層部が判断し、氷雨の手があくまで無銘は放っておかれた。氷雨のこれまでの尋問から一日で結果を出せるだろうとの命令だったが、氷雨は三日と返答し、上層部は彼の今までの忠誠心を信用し肯定した。氷雨は三日で無銘から情報を、それも国家転覆という重要事項に関するものを聞き出さなければならない。
しかして氷雨は焦ることなくこんな世間話のようなトーンで上層部の命令などないかのように振る舞う。
「僕の部下が尋問を担当したのは末端も末端で最初から期待はしてなかったけど、そうこうしているうちに大物を捕まえたうちの警備隊はすごいね。僕の仕事が増えちゃったけど」
無銘はというと氷雨のゆったりした尋問らしくないあっけらかんとした会話に油断することなく、その端正な顔で微笑ましそうに見つめていた。
この尋問部屋に不釣り合いな二人。そんな二人の不思議な尋問が始まったのだった。
「ひとつ関係ないといえばないんだけど気になったこと言っていいかな?」
「何です?」
「僕たちってどこかで会ったことあるっけ?」
「どういう意味です? もしかして口説かれてたりします?」
氷雨は人懐っこい笑みとともにそう問いかけた。それに対して微笑みを崩すことなく無銘も応答する。
「口説く……? いやそのままの意味だよ。君のその表情は初対面の人に向けるにはいささか不自然じゃない? 僕は会話した人間を忘れることはないはずなんだけどもしかして僕が忘れてるだけで接点でもあったのかなと思って」
不思議そうな顔に思わず表情を緩めそうになった無銘は話題を躱す。
「それを言うなら、氷雨さんの表情も尋問官らしからぬとは思いますけど」
「確かにそうかも」
そこでまたも静寂が訪れる。
お互いを観察する。
氷雨は無銘の端正な顔を見ながら再度過去に会ったことがあるのか記憶をたどる。座らせられているので憶測だが、身長は自分より10センチほど高そうであり、年齢は見た目からは20代半ばのような印象を受ける。自分が尋問官になってから尋問した相手ではない。そして尋問官になる前の任務で出会った記憶もない。となると幼少のとき、あるいはただ路上ですれ違っただけか。様々なことが頭に浮かんでは否定されていく。すれ違っただけの人間に向けるとしてもこの表情はおかしいし、国家転覆のために暗躍していただろう期間を鑑みてすれ違っただけの人間を覚えていられるくらい直近で見かけた記憶もない。この整った顔であるから目立つはずであるし、捕まった経緯も彼だけ目立ちすぎたからと聞いている。氷雨は自分の記憶力に自信がある。それも絶対的な自信。だから間違えるはずはない。残った線はかなり前にすれ違っただけ見かけただけくらいの関係。腑に落ちないけれど、どうせ終わる頃には全部わかってるのだからと自分を納得させて思考を終わらせる。
今回も氷雨が静寂を破った。
「……あ、いつもこれは言ってるんだけど、僕は尋問官だけど尋問はしない。君が関与しない間に真実は白昼に晒されるから」
「それは今すぐですか?」
「関与しない間って言ったよ。でもまあいいか。明後日には必ず上層部に伝わってる」
「二日の猶予があるという解釈でいいですか?」
作り笑顔だとはっきりわかる満面の笑みで氷雨は首肯する。
ここで初めて無銘の表情が崩れた。痛みを感じているかのように顔を少し歪め、息を吐く。
二日の猶予。それにどのような意味があるのか無銘は知っている。
だからこそわかる。氷雨の言っていることがすべて真実であると。
「……なるほど。そういうことですか。尋問しない、確かにそうなりますね」
「そう。尋問はしない。尋問のやり方も僕は知らないからしないというよりできないの方が本当は正しいんだけど」
「あなたはずるい人だ」
無銘の口から今までの応答とは全く違う声音で呟かれる。
ずるい人。その言葉を氷雨は反芻させて、思考を巡らせる。
「僕はどっちでもいいんだ。本当に。国家の犬として生きてきたけど別に忠誠心はないよ。それに僕を揶揄するなら傀儡の方が言い得てる」
「だから二日……」
「うん。二日。君が何を言っても何をしても僕は気にしない。これも僕が僕の目的を探す過程に過ぎないから」
氷雨は頬杖を突き、目を伏せ、ただ確認するようにそう言う。
目的。それが何を意味するか無銘には何となく察することができた。
「じゃあ、僕からも質問していいですか?」
さっきまでの微笑みとは違い、力の抜けた笑みで問いかけられた。
伏せていた視線を戻しながら、意に介すことなく淡々と返す。
「へえ、尋問されるのは苦手だな」
「僕のことを知っている気がするんですよね?」
「うん」
「それって、どういう“知っている”なんでしょう?」
氷雨は目を細めた。
この男は、試している――そう直感した。
「懐かしい感覚? それとも、何か嫌な予感?」
「……さあ、どっちかな」
「“どこかで会った気がする”って言いましたけど、本当にそれだけですか?」
無銘は小さく笑った。
「あなたは本当は、もっと知っているんじゃないですか?」
今度は、氷雨の方が沈黙した。
胸の奥で、小さな痛みがうずいた。
――知っている? 彼を?
なぜか、氷雨の手がかすかに震えた。
“尋問する側”だったはずなのに、いつの間にか“試される側”になっている。
「君ほどの整った顔なら忘れるはずないと思うんだけどね」
独り言のように吐き出す。
記憶に存在しない。己の記憶力に絶対的な自信があるから彼と会ったことはないと否定できる。否定できるはずだが、無銘の物言いは氷雨の記憶してない間にでもあったことがあるかのよう。氷雨は自分の記憶力への自信に一瞬の迷いが生じる。
「覚えてないのもしょうがないでしょうけど」
「え……?」
思考の海から引きずり出された。
この僕が覚えていない……。そういった困惑を感じていることが顔に顕著に出てしまった。
「仕方ないんですよ。あなたは覚えていない。それがわかっただけでも僥倖です」
そこで扉を叩く音が無機質な部屋に響いた。
氷雨は立ち上がり、扉へと向かう。無銘の言葉だけが頭に残っていた。
扉を叩いたのは氷雨の部下で、夕食の時間になったことを知らせるためであった。そのため一旦尋問は中断された。
部下に残りを引き継ぎ、夕食を取るために食堂へと足を向ける。
氷雨は時間外労働を好まない。尋問対象への負担だの自分の能力を発揮するためだのそれらしい理由を並べ立てて、自分は朝食を食べた後から夕食を食べるまでの間しか働かない。昼食のために一時間ほどの休憩も欠かさない。だから部下は呼びに来た。
氷雨にとっては最悪のタイミングだった。自分が相手を揺さぶる立場であるのに彼の言葉に囚われている。その状況が気持ち悪かった。でも答えを知るには自分が思い出すか無銘が口を割るかの二択。自分の尋問スキルが最低限しかないことを自覚しているからこそ前者しか残っていない。だが無銘はこう言った。『覚えていないのもしょうがない』と。
ならどうすればいい。
国家の傀儡になってから、氷雨は壁に当たったことはないに等しい。あっても時間や環境が解決した。
わからないことなどないはずだった。だが今は無銘のことがわからない。自分に会うためだけにわざと捕まったのではないかと根拠のない不安が頭をよぎるほど。目立っていたから。それだけであの無銘を捕らえられたことに対して疑問がなかったわけではない。だけれど彼は捕まった。その事実だけが変わらずそこにある。
今日の夕食は好物が出たはずなのに味がしなかった。ただ自覚をしたくない不安だけがそこにあった。
その静けさの中、音が鳴る。
誰かが扉を開けた音であった。そしてその者の歩みが部屋の静寂を断ち切って響く。
「初めまして。大罪人さん。僕は氷雨。君の尋問を執り行う者として任命された。よろしく」
無銘の向かいで止まるとそう言った。笑みを携えてはいるもののどこか事務的な声音。氷雨が無銘に視線を向ける。無銘は目が合うとふわっと笑った。そして視線を逸らすこともなくただまっすぐに氷雨を見ている。
この部屋に似合わない笑み。その笑みを見た一瞬、心臓を指先でそっと撫でられたような奇妙な感覚があった。彼とは面識などないことはわかりきっている。刹那だけれども鮮明に違和感を感じたような気がした。
だが、表情を崩すことなく話を続ける。
「無銘だよね? 自供してくれると大変助かるんだけど、君はどうする?」
乾いた笑いが返ってくる。
拘束されているというのに、その表情は余裕に満ちている。国家転覆を企てた大罪人。捕まれば死は免れない。にもかかわらず、この男はまるで尋問室の空気を楽しんでいるようにさえ見えた。
「そうです。僕は無銘。あなた方が追っている大罪人は僕のことです。ですが、自供するとなると話は変わってきます。僕のことをご存じであるなら、性格もある程度は知っているのではないです?」
「なるほど。確かにこんな些細な問いかけで君が自供するなら、僕はここに呼ばれてない。まあでも、僕は君に関してそこまで情報は持ち合わせていないね。君たちの反逆行動、国家転覆に対する情報もそこまで重要そうなのを部下は引き出せなかったし、君たちの組織の情報さえ掴めないままだったのに君が捕まったから」
椅子を引いて腰掛けながら、軽い調子で自供を促すも返事は当たり前のごとく否だった。
氷雨はその返答に対してなんとも思っていない。ただの世間話の延長くらいのテンション感。
二人の会話はお互いに殺気や威圧は感じられない。無銘が拘束されていること以外は、詳細を知らない人が見れば、仲の良い集まりくらいだなと思うような軽快さである。
それもそのはず、氷雨は尋問官としては異質な存在だった。彼の年齢が20歳にも満たないことも理由のひとつではあるが、異質であることの根幹は他にあった。他の尋問官は尋問をする。相手は犯罪者。無罪であるものやそれに近しいものは尋問官へと回される前に弾かれる。そのため情報を聞き出すためには手段を問わないものが多い。残虐非道。その言葉が当てはまる行為で尋問官は尋問という任務を遂行する。しかしながら氷雨は違った。尋問官として高い地位にいながら彼の手で行われた尋問に他の尋問官のような筆舌に尽くしがたい尋問は含まれてなかった。尋問官として異端。そのような立ち位置にいながら彼が上に立てるのはその尋問の成功率であった。彼が担当した尋問で収穫がなかったことはなく、しかもその情報の正確性、そして重要性は誰もが認めるもので、彼がどんな尋問をしようとどんな行動に出ようと文句を言う手合いはいない。そのような批判をするものは結果で黙らせてきた。
この尋問も氷雨にしか任せられないと上層部が判断し、氷雨の手があくまで無銘は放っておかれた。氷雨のこれまでの尋問から一日で結果を出せるだろうとの命令だったが、氷雨は三日と返答し、上層部は彼の今までの忠誠心を信用し肯定した。氷雨は三日で無銘から情報を、それも国家転覆という重要事項に関するものを聞き出さなければならない。
しかして氷雨は焦ることなくこんな世間話のようなトーンで上層部の命令などないかのように振る舞う。
「僕の部下が尋問を担当したのは末端も末端で最初から期待はしてなかったけど、そうこうしているうちに大物を捕まえたうちの警備隊はすごいね。僕の仕事が増えちゃったけど」
無銘はというと氷雨のゆったりした尋問らしくないあっけらかんとした会話に油断することなく、その端正な顔で微笑ましそうに見つめていた。
この尋問部屋に不釣り合いな二人。そんな二人の不思議な尋問が始まったのだった。
「ひとつ関係ないといえばないんだけど気になったこと言っていいかな?」
「何です?」
「僕たちってどこかで会ったことあるっけ?」
「どういう意味です? もしかして口説かれてたりします?」
氷雨は人懐っこい笑みとともにそう問いかけた。それに対して微笑みを崩すことなく無銘も応答する。
「口説く……? いやそのままの意味だよ。君のその表情は初対面の人に向けるにはいささか不自然じゃない? 僕は会話した人間を忘れることはないはずなんだけどもしかして僕が忘れてるだけで接点でもあったのかなと思って」
不思議そうな顔に思わず表情を緩めそうになった無銘は話題を躱す。
「それを言うなら、氷雨さんの表情も尋問官らしからぬとは思いますけど」
「確かにそうかも」
そこでまたも静寂が訪れる。
お互いを観察する。
氷雨は無銘の端正な顔を見ながら再度過去に会ったことがあるのか記憶をたどる。座らせられているので憶測だが、身長は自分より10センチほど高そうであり、年齢は見た目からは20代半ばのような印象を受ける。自分が尋問官になってから尋問した相手ではない。そして尋問官になる前の任務で出会った記憶もない。となると幼少のとき、あるいはただ路上ですれ違っただけか。様々なことが頭に浮かんでは否定されていく。すれ違っただけの人間に向けるとしてもこの表情はおかしいし、国家転覆のために暗躍していただろう期間を鑑みてすれ違っただけの人間を覚えていられるくらい直近で見かけた記憶もない。この整った顔であるから目立つはずであるし、捕まった経緯も彼だけ目立ちすぎたからと聞いている。氷雨は自分の記憶力に自信がある。それも絶対的な自信。だから間違えるはずはない。残った線はかなり前にすれ違っただけ見かけただけくらいの関係。腑に落ちないけれど、どうせ終わる頃には全部わかってるのだからと自分を納得させて思考を終わらせる。
今回も氷雨が静寂を破った。
「……あ、いつもこれは言ってるんだけど、僕は尋問官だけど尋問はしない。君が関与しない間に真実は白昼に晒されるから」
「それは今すぐですか?」
「関与しない間って言ったよ。でもまあいいか。明後日には必ず上層部に伝わってる」
「二日の猶予があるという解釈でいいですか?」
作り笑顔だとはっきりわかる満面の笑みで氷雨は首肯する。
ここで初めて無銘の表情が崩れた。痛みを感じているかのように顔を少し歪め、息を吐く。
二日の猶予。それにどのような意味があるのか無銘は知っている。
だからこそわかる。氷雨の言っていることがすべて真実であると。
「……なるほど。そういうことですか。尋問しない、確かにそうなりますね」
「そう。尋問はしない。尋問のやり方も僕は知らないからしないというよりできないの方が本当は正しいんだけど」
「あなたはずるい人だ」
無銘の口から今までの応答とは全く違う声音で呟かれる。
ずるい人。その言葉を氷雨は反芻させて、思考を巡らせる。
「僕はどっちでもいいんだ。本当に。国家の犬として生きてきたけど別に忠誠心はないよ。それに僕を揶揄するなら傀儡の方が言い得てる」
「だから二日……」
「うん。二日。君が何を言っても何をしても僕は気にしない。これも僕が僕の目的を探す過程に過ぎないから」
氷雨は頬杖を突き、目を伏せ、ただ確認するようにそう言う。
目的。それが何を意味するか無銘には何となく察することができた。
「じゃあ、僕からも質問していいですか?」
さっきまでの微笑みとは違い、力の抜けた笑みで問いかけられた。
伏せていた視線を戻しながら、意に介すことなく淡々と返す。
「へえ、尋問されるのは苦手だな」
「僕のことを知っている気がするんですよね?」
「うん」
「それって、どういう“知っている”なんでしょう?」
氷雨は目を細めた。
この男は、試している――そう直感した。
「懐かしい感覚? それとも、何か嫌な予感?」
「……さあ、どっちかな」
「“どこかで会った気がする”って言いましたけど、本当にそれだけですか?」
無銘は小さく笑った。
「あなたは本当は、もっと知っているんじゃないですか?」
今度は、氷雨の方が沈黙した。
胸の奥で、小さな痛みがうずいた。
――知っている? 彼を?
なぜか、氷雨の手がかすかに震えた。
“尋問する側”だったはずなのに、いつの間にか“試される側”になっている。
「君ほどの整った顔なら忘れるはずないと思うんだけどね」
独り言のように吐き出す。
記憶に存在しない。己の記憶力に絶対的な自信があるから彼と会ったことはないと否定できる。否定できるはずだが、無銘の物言いは氷雨の記憶してない間にでもあったことがあるかのよう。氷雨は自分の記憶力への自信に一瞬の迷いが生じる。
「覚えてないのもしょうがないでしょうけど」
「え……?」
思考の海から引きずり出された。
この僕が覚えていない……。そういった困惑を感じていることが顔に顕著に出てしまった。
「仕方ないんですよ。あなたは覚えていない。それがわかっただけでも僥倖です」
そこで扉を叩く音が無機質な部屋に響いた。
氷雨は立ち上がり、扉へと向かう。無銘の言葉だけが頭に残っていた。
扉を叩いたのは氷雨の部下で、夕食の時間になったことを知らせるためであった。そのため一旦尋問は中断された。
部下に残りを引き継ぎ、夕食を取るために食堂へと足を向ける。
氷雨は時間外労働を好まない。尋問対象への負担だの自分の能力を発揮するためだのそれらしい理由を並べ立てて、自分は朝食を食べた後から夕食を食べるまでの間しか働かない。昼食のために一時間ほどの休憩も欠かさない。だから部下は呼びに来た。
氷雨にとっては最悪のタイミングだった。自分が相手を揺さぶる立場であるのに彼の言葉に囚われている。その状況が気持ち悪かった。でも答えを知るには自分が思い出すか無銘が口を割るかの二択。自分の尋問スキルが最低限しかないことを自覚しているからこそ前者しか残っていない。だが無銘はこう言った。『覚えていないのもしょうがない』と。
ならどうすればいい。
国家の傀儡になってから、氷雨は壁に当たったことはないに等しい。あっても時間や環境が解決した。
わからないことなどないはずだった。だが今は無銘のことがわからない。自分に会うためだけにわざと捕まったのではないかと根拠のない不安が頭をよぎるほど。目立っていたから。それだけであの無銘を捕らえられたことに対して疑問がなかったわけではない。だけれど彼は捕まった。その事実だけが変わらずそこにある。
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