5 / 40
そうそう上手くはいかない
しおりを挟む
久松佑介さんが亡くなるまで住んでいたマンションは、私の利用している駅から電車で三十分ほどの駅にあった。築年数はそれなりに経っているのだろうが、メンテナンスがいいのかエントランスも外観もとても綺麗で、家賃もお高そうな印象を受けた。
久松さんが言うには、残業で給料も結構貰っていたけど使う暇もないし、毎晩遅くなってから帰るので、洗濯機回したり風呂入ったりの生活音が響かない、防音のしっかりしたところに住もうと考え一年前に引っ越したのだそうだ。まあ仕事でもストレスが溜まるのに、家に帰って来てご近所トラブルに見舞われるのは流石に嫌だろう。
マスターは、「予算オーバーするようなことがあればすぐ言ってね。余ったら、残りでぱーっと美味しいものでも食べて」と一万円もくれたので、休日の時間の使い方としてはかなり有意義ではないだろうか。そのお金で管理人さんへの貢ぎ物として煎餅を購入する。お姉さんに会う際は設定として、私は大学時代のサークル(ミステリ研究会)の後輩で、久松さんとは大学後も細く長く友人付き合いがあって、借りていた推理小説をご遺族にお返ししたいという、さほど疑われはしないだろうという名目を考えて、本屋で久松さんの言われるままに二冊の文庫を購入した。これは私も好きな本だったので、何となく嬉しくなった。生きていたら趣味の合う友人になっていたかも知れない。
平日の方が管理人がいるだろうと、水曜休みの日にマンションを訪れると、案の定管理人室には七十歳前後と思われる、大理石のような磨き抜かれた頭頂部の男性が新聞を読んでいる姿が見えた。常々思うが、滅びゆく大草原みたいな頭髪の男性でも、頭部の下側の毛髪への被害がなくふさふさしている人が多いのは何故だろうか。もしかすると側頭部やぼんのくぼと呼ばれる生命に直結する弱点を守ろうとする人間本来の生存本能なのかも知れない。
ガラス戸の前に立つ私を認めて、少し怪訝そうな顔をした管理人は、貢ぎ物を渡して状況を説明するとああ、と相槌を打った。
「久松さんの後輩さん……彼も大変だったよねえ……ま、マンション側としては、室内で腐敗するまで見つからないのも清掃とか困るんだけど、飛び降りって新聞にも載っちゃっただろ? マンション全体が事故物件になっちゃってさあ。他の住人の家賃も少しの期間は下げなきゃならないし、こちらもかなりのダメージなんだよね。追い詰められてたんだろうし、彼を責める気はないんだけど、せめて別の場所でやってくれていたら、とは思うやね。酷い言い方だけどさ」
「いえ、管理会社の立場なら当然だと思います」
「そうかい? ──ただ悪いんだけど、お姉さんの連絡先は教えられないんだよ。なんか雑誌記者だか新聞記者が、君みたいに知り合いみたいな感じでしれっと問い合わせしてきたりするけど、個人情報の漏洩は流石にねえ」
「そうですよね……」
さて困った。マスターにお金も貰い、久松さん本人からも頼まれたが、素人探偵の出番はここまでか。……そこでふと気が付いた。
「久松さんのお部屋って、もう引き払っておられるんですか?」
「いいや。今月末までにお姉さんが荷物整理をして退去って感じだね」
私はショルダーバッグからメモ帳を取り出して、急いで自分の名前と連絡先を書き込むと管理人さんに渡した。
「これ、私の連絡先です。お姉さんがまだ何度か来られると思うので、出来たら本を返却するだけなので良ければ連絡が欲しいと伝言頂けませんか? 一応遺品になるかとは思うので。私がこのまま持っているのも申し訳ないですし、連絡がなければ許可を得たつもりで形見にしますので」
管理人は、渡すぐらいならば、と快く預かってくれた。貢ぎ物も好印象を与えたのかも知れない。彼女が連絡をくれるかは分からないが、一縷の望みだけは残せた。
マンションから出ると、緊張でガチガチだった肩がようやくほぐれたような気がして息をついた。事情があるとはいえ、嘘をつくのはやはり良心が疼くものである。
役目は果たしたと気楽になった私は、普段利用しない駅をぷらぷらと歩き、チョコレート専門店なるものがあったので流れるように店に入る。スイーツに対する防御力はミジンコ並みである。本日ぱんどらは休みだがご近所だし、帰りに報告がてらクライアントであるマスターにもお土産持って行こうかな、と自分用とマスターの分の【お勧めバラエティーアソート】なるものを包んで貰うのであった。
久松さんが言うには、残業で給料も結構貰っていたけど使う暇もないし、毎晩遅くなってから帰るので、洗濯機回したり風呂入ったりの生活音が響かない、防音のしっかりしたところに住もうと考え一年前に引っ越したのだそうだ。まあ仕事でもストレスが溜まるのに、家に帰って来てご近所トラブルに見舞われるのは流石に嫌だろう。
マスターは、「予算オーバーするようなことがあればすぐ言ってね。余ったら、残りでぱーっと美味しいものでも食べて」と一万円もくれたので、休日の時間の使い方としてはかなり有意義ではないだろうか。そのお金で管理人さんへの貢ぎ物として煎餅を購入する。お姉さんに会う際は設定として、私は大学時代のサークル(ミステリ研究会)の後輩で、久松さんとは大学後も細く長く友人付き合いがあって、借りていた推理小説をご遺族にお返ししたいという、さほど疑われはしないだろうという名目を考えて、本屋で久松さんの言われるままに二冊の文庫を購入した。これは私も好きな本だったので、何となく嬉しくなった。生きていたら趣味の合う友人になっていたかも知れない。
平日の方が管理人がいるだろうと、水曜休みの日にマンションを訪れると、案の定管理人室には七十歳前後と思われる、大理石のような磨き抜かれた頭頂部の男性が新聞を読んでいる姿が見えた。常々思うが、滅びゆく大草原みたいな頭髪の男性でも、頭部の下側の毛髪への被害がなくふさふさしている人が多いのは何故だろうか。もしかすると側頭部やぼんのくぼと呼ばれる生命に直結する弱点を守ろうとする人間本来の生存本能なのかも知れない。
ガラス戸の前に立つ私を認めて、少し怪訝そうな顔をした管理人は、貢ぎ物を渡して状況を説明するとああ、と相槌を打った。
「久松さんの後輩さん……彼も大変だったよねえ……ま、マンション側としては、室内で腐敗するまで見つからないのも清掃とか困るんだけど、飛び降りって新聞にも載っちゃっただろ? マンション全体が事故物件になっちゃってさあ。他の住人の家賃も少しの期間は下げなきゃならないし、こちらもかなりのダメージなんだよね。追い詰められてたんだろうし、彼を責める気はないんだけど、せめて別の場所でやってくれていたら、とは思うやね。酷い言い方だけどさ」
「いえ、管理会社の立場なら当然だと思います」
「そうかい? ──ただ悪いんだけど、お姉さんの連絡先は教えられないんだよ。なんか雑誌記者だか新聞記者が、君みたいに知り合いみたいな感じでしれっと問い合わせしてきたりするけど、個人情報の漏洩は流石にねえ」
「そうですよね……」
さて困った。マスターにお金も貰い、久松さん本人からも頼まれたが、素人探偵の出番はここまでか。……そこでふと気が付いた。
「久松さんのお部屋って、もう引き払っておられるんですか?」
「いいや。今月末までにお姉さんが荷物整理をして退去って感じだね」
私はショルダーバッグからメモ帳を取り出して、急いで自分の名前と連絡先を書き込むと管理人さんに渡した。
「これ、私の連絡先です。お姉さんがまだ何度か来られると思うので、出来たら本を返却するだけなので良ければ連絡が欲しいと伝言頂けませんか? 一応遺品になるかとは思うので。私がこのまま持っているのも申し訳ないですし、連絡がなければ許可を得たつもりで形見にしますので」
管理人は、渡すぐらいならば、と快く預かってくれた。貢ぎ物も好印象を与えたのかも知れない。彼女が連絡をくれるかは分からないが、一縷の望みだけは残せた。
マンションから出ると、緊張でガチガチだった肩がようやくほぐれたような気がして息をついた。事情があるとはいえ、嘘をつくのはやはり良心が疼くものである。
役目は果たしたと気楽になった私は、普段利用しない駅をぷらぷらと歩き、チョコレート専門店なるものがあったので流れるように店に入る。スイーツに対する防御力はミジンコ並みである。本日ぱんどらは休みだがご近所だし、帰りに報告がてらクライアントであるマスターにもお土産持って行こうかな、と自分用とマスターの分の【お勧めバラエティーアソート】なるものを包んで貰うのであった。
0
あなたにおすすめの小説
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ゲーム未登場の性格最悪な悪役令嬢に転生したら推しの妻だったので、人生の恩人である推しには離婚して私以外と結婚してもらいます!
クナリ
ファンタジー
江藤樹里は、かつて画家になることを夢見ていた二十七歳の女性。
ある日気がつくと、彼女は大好きな乙女ゲームであるハイグランド・シンフォニーの世界へ転生していた。
しかし彼女が転生したのは、ヘビーユーザーであるはずの自分さえ知らない、ユーフィニアという女性。
ユーフィニアがどこの誰なのかが分からないまま戸惑う樹里の前に、ユーフィニアに仕えているメイドや、樹里がゲーム内で最も推しているキャラであり、どん底にいたときの自分の心を救ってくれたリルベオラスらが現れる。
そして樹里は、絶世の美貌を持ちながらもハイグラの世界では稀代の悪女とされているユーフィニアの実情を知っていく。
国政にまで影響をもたらすほどの悪名を持つユーフィニアを、最愛の恩人であるリルベオラスの妻でいさせるわけにはいかない。
樹里は、ゲーム未登場ながら圧倒的なアクの強さを持つユーフィニアをリルベオラスから引き離すべく、離婚を目指して動き始めた。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
地味な薬草師だった俺が、実は村の生命線でした
有賀冬馬
ファンタジー
恋人に裏切られ、村を追い出された青年エド。彼の地味な仕事は誰にも評価されず、ただの「役立たず」として切り捨てられた。だが、それは間違いだった。旅の魔術師エリーゼと出会った彼は、自分の能力が秘めていた真の価値を知る。魔術と薬草を組み合わせた彼の秘薬は、やがて王国を救うほどの力となり、エドは英雄として名を馳せていく。そして、彼が去った村は、彼がいた頃には気づかなかった「地味な薬」の恩恵を失い、静かに破滅へと向かっていくのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる