紫苑の誓約ー甘美な愛とすれ違いの愛の果てに、記憶を失くした皇太女を変わらず溺愛するー

苺迷音

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1 宮廷舞踏会にて

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 満月の夜、アースガルド宮殿の表棟にある謁舞大広間は、建国祝祭の輝きに包まれていた。

 天から降り注ぐ幾重もの光が、空間そのものを黄金の粒子へと変えていた。 見上げるほどに高い天井は深い闇を湛え、そこから滴るような輝きが、黒の床に天空の鏡像を描き出している。

 広間の横に連なる幾本もの巨柱は、人の手を超えた壮麗さで静まり返った夜を支え、深紫の絨毯が、神域へと続く道のように真っ直ぐ階段の上へと伸びていた。 ここは王宮の一部などではない。光と金、そして鮮烈な紫と選び抜かれた色だけで構築された、名もなき神殿のような別世界だった。

 その場で行われていたのは、宮廷舞踏会。
 それは社交界の華であり、権力と美の競演の場。

 だが今宵、誰もが目を奪われたのは、広間の中央に立つ一人の女性だった。

 ジュノ・フォン・レグラザランド。大帝国の次期女帝となる皇女。

 星々の瞬きを全て集めたようなプラチナブロンドの長髪が、彼女の動きに合わせて波打つ。その瞳は皇族のみが宿すという深い紫。まるで夜明け前の空を映したかのようだ。象牙色のドレスがしなやかな身体のラインを際立たせ、首元で揺れるサファイアのネックレスが、彼女の気品をさらに引き立てている。誰もが天上の女神と讃える美しさは、建国の祝福を全て束ねるように、そこに静かに立っていた。

 しかし、その完璧な微笑みの奥に潜む孤独を見抜ける者は、この場にはほぼ、いない。

「お久しぶりです、姫様」

 低く、それでいて心地よい響きを持つ声。

 ジュノの視線が音源を捉えた瞬間、会場全体の空気が変わった。

 レオ・フォン・アンドレウス。

 大帝国随一の公爵家嫡男にして、比類なき美貌の持ち主。

 高い位置でひとつに束ねられ、背中に流す癖のない長い金の髪は、彼の気品と野性を同時に際立たせている。碧い瞳は深い湖のように澄んでいながら、その奥底には抑えきれない何かが燃えていた。

 彼が立っているだけで、周囲の空気が変わる。女性たちの吐息が、男性たちの嫉妬が、そして何よりジュノ自身の心臓の鼓動が――すべてが、彼の存在を証明していた。

「レオ」

 ジュノの声音が、ほんの僅かだけ柔らかくなる。

「ごきげんよう。お久しぶりって。一昨日会ったと思うけれど?」

 周囲の貴族たちが息を潜めて二人を見つめた。二人の間に流れる、言葉にならない何かを誰もが察し感じていた。囁き合う声が、さざ波のように広間に広がっていく。

「今宵も星々さえ霞むほどのお美しさです」

 レオは一歩近づき、白い手袋越しにジュノの手を取った。そして口づけるのではなく、その直前で止める。完璧な所作。計算された距離感。

「舞踏会の最初の一曲、私にお許しいただけますか」

 ジュノの唇に、今夜初めての本物の微笑みが浮かんだ。

「喜んで」

 二人が広間の中央へ歩み出ると、楽団は優雅なワルツの序奏を奏で始めた。

 レオの手がジュノの腰に添えられる。もう一方の手が彼女の手を包む。二人の距離は、社交ダンスとして許される最小限。しかしその僅かな空間に、言葉以上の何かが満ちていた。

 旋律に乗せて、二人は舞い始める。

「姫様」

 レオの声は、周囲に聞こえないほど低く抑えられていた。

「また、お疲れのご様子ですね」

 ジュノは首を横に振った。白金の髪が月光を弾く。

「大丈夫よ。民のために尽くすのが、わたくしの使命ですもの」

 レオの青碧の瞳に一瞬だけ、苦悩の色が過った。

「姫様こそが、何よりも大切なのです」

 その言葉の重みをジュノは、全身で感じ取っていた。

 一曲が終わるその瞬間が訪れるのが、あまりにも早すぎた。

 周囲から拍手が沸き起こる中、新たな人影が二人に近づいてきた。

「お二人とも、見事なダンスでした」

 深く静かな声。

 振り返ると、そこには白銀の髪を持つ長身の男性が立っていた。

 ゼノア・ラヴェル――大教皇。神に最も近い存在として崇められる聖職者。その琥珀色の瞳は今この瞬間、ジュノだけを映していた。

「ゼノア」

 ジュノは優雅に会釈する。

「ご機嫌麗しく。何かご用件でしょうか」

「明日、聖堂にて祭儀を執り行います」

 ゼノアの声には特有の荘厳さがあった。

「是非、皇太女殿下のご臨席を賜りたく」

「承知いたしました。必ず参ります」

 その会話にレオが割って入った。

「明日の式典には、私も同行させていただきたいのですが」

 表面上は丁寧な申し出。しかしその奥底に潜む独占欲をゼノアは見逃さなかった。

「ご随意に」

 二人の男性の間に、目に見えない緊張が走る。

 そこへさらに――

「素晴らしい舞踏会ですね」

 柔らかく、それでいて計算された響きを持つ声。

 黒髪に青い瞳を持つ優雅な男性――隣国ラディウスの第二王子、リュシアン・ベルファメルが静かに微笑みながら立っていた。

「もしよろしければ、次の曲は私が相手をさせていただけませんか」

 ジュノが頷くと、リュシアンの青い瞳に一瞬だけ満足の色が灯った。

「光栄です」

 再び音楽が始まる。

 リュシアンとジュノが踊り出す様を、複数の視線が追っていた。

 広間の片隅――赤髪赤眼の猛々しい男性、辺境伯家の英雄アレン・クラウスが、じっと二人を見つめている。

 その隣――銀髪に青い瞳の繊細な印象を持つ男性、レオの側近カイ・シーグラムもまた、ジュノから目を離さない。

 五人の男性たち。

 それぞれが異なる立場から、異なる想いで――しかし同じ一人の女性を見つめている。



 舞踏会も終盤に差しかかった頃。

 ジュノは疲労を感じ、人々の視線から逃れるようにバルコニーへと出た。夜風が頬を撫でる。遠くに見える街の灯りが、地上の星のように瞬いていた。

「やはり、お疲れでしたか」

 背後から聞こえた声に、ジュノは驚かない。

「……レオ」

 振り返ると彼が月光の中に立っていた。金の髪が銀色に染まり、青碧の瞳が夜空を映している。

「少し休めば大丈夫よ」

 ジュノは再び夜空を見上げる。

 レオは音もなく彼女の隣に立ち、そっと肩に触れた。

「姫様……」

 その呼びかけには、広間では決して聞かせなかった切実さがあった。

 次の瞬間。レオの手がジュノの顎を持ち上げ、そして唇が重なった。

 深く、長い口づけ。

 周囲からは死角になっているとはいえ、宮廷内で許されざる行為。しかしレオは止まらない。唇が離れた時、二人の呼吸が僅かに乱れる。

「いつか必ず」

 レオの声が、夜風に溶ける。

「あなたを正式に迎えに参ります」

 ジュノは何も答えなかった。ただ、彼の胸に額を預ける。

 月明かりの中、二人の影が一つに重なっていた。

 そしてその光景を――離れた場所から、五つの影が見つめていた。

 それぞれの胸に、同じ想いと、交錯する運命への予感を抱きながら。

 夜は更けていく。
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