紫苑の誓約ー甘美な愛とすれ違いの愛の果てに、記憶を失くした皇太女を変わらず溺愛するー

苺迷音

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16 朝の浴場にて

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 レオとジュノは、早朝の澄んだ空気がまだ眠る宮廷を静かに満たし始める頃、存在自体が限られた者しか知らぬ浴室で、大理石の浴槽に身を沈めていた。湯気が立ち込める空間に、昨夜の余韻を象徴する薔薇の花弁が静かに漂っている。

「やっぱり罪よね。こうして隠れて逢瀬を重ねるのは」

 ジュノの声は、湯気の中で、朝の静寂に溶けるように響いた。

「罪?」 

 レオの声には、疑問とわずかな苛立ちが混じる。

「どこに罪があると言うのです? 俺たちは、帝国が認めた婚約者同士だ」

 ジュノの白金の髪は高く纏めて結い上げられ、白い首筋が露わになっていた。レオの金髪も同様に束ねられては居たが、長い髪が湯に浸かっていた。

「わたくしたちの立場を忘れたの?」

 ジュノは浴槽の縁に頭を預け、視線を湯面に落としたまま、静かに言った。

「次期女帝と時期大公爵。表向きは公的な関係を保たねばならない」

 レオの手が彼女の濡れた髪を撫でる。

「公的な立場が何か? 私たちの愛が真実なら――」

「真実なら?」

 ジュノが冷ややかに問い返した。

「宮廷内で噂が広まっていることを知っているでしょう?」

 レオの表情が曇る。

「もちろん」

「『アンドレウス家が王位簒奪を企てている』という噂。ああいうのは本当に厄介なものよ」

 ジュノの言葉は水面を叩くように響いた。

「単なる嫉妬や陰謀だけじゃない。多くの者が警戒しているの」

「俺はそんなことはしていない。それに、その噂は俺の父や家門に対する侮辱でもある。父の忠誠は皇帝陛下に誓ったのだから。そして俺はあなたに」

「でも、していないと証明できる?」

 その問いにレオは黙った。水面の薔薇が揺れる。

「政治の世界では、愛という言葉だけでは通じない。特に皇族の血の結びつきには常に打算が伴う」

「それで昨夜の行為は罪だと? あなたも望んだことなのに?」

 レオの声には、仄かな怒りが混じっていた。

「ええ。望んだわ」

 ジュノは認めながらも目を逸らした。

「でも……わたくしたちは責任ある立場にあるのよ」

 レオが突然立ち上がった。滴る水滴が床に落ちる。束ねた金髪からも、湯が滴り落ちている。

「この宮廷のどこに純粋な愛があると言うのです? 全てが打算と策略の産物じゃないか」

「理想論は危険よ」

 ジュノも立ち上がり、傍に置いてあったタオルを手にすると、髪を拭きながら言った。

「特にわたくしたちのような立場の人間にとっては」

「では聞くが」

 レオが彼女の前に立ちはだかる。

「昨夜の熱情は嘘だったと?」

 ジュノの目が潤んだ。

「嘘ではないけれど……」

「ならばなぜ罪と言い張る?」

レオの声には苛立ちが滲んでいた。

「なぜなら」

 彼女は言葉を選びながら答えた。

「本当の愛が純粋であるほど、政治の世界では歪められるからよ。わたくしたち二人はその頂点に就くの」

 浴室の窓から射し込む朝日が二人の姿を金色に染める。レオはゆっくりとジュノに近づき、彼女の肩に手を置いた。

「周りがどんなに噂しようが、歪めようが、それでも俺はあなたを愛している。それが真実だ」

「わたくしもよ」

「ならば共に進めばいい」

 ジュノの表情に迷いが浮かんだ。

「でも……」

「何を恐れている?」

「わたくしたちの未来よ」

「恐れることはない」

 レオの唇が彼女の額に触れる。

「どんな障害も二人で乗り越えればいい」

 その言葉にジュノの緊張が解けていくのが分かった。

「でも、もしも……」

「もしも?」

「もしも子供ができたとしたら?」

 その言葉を聞いた瞬間、レオの顔に喜びの色が広がった。

「それは、嬉しいに決まっている。あなたと俺の子だ。この世の何よりも尊く、俺たちの宝に――」

「政治的な武器になるわ」

 対して、ジュノの声は冷静だった。

「アンドレウス家の勢力を拡大する手段として使われる可能性だってある」

 レオの喜びは一瞬で消え、深刻な表情になった。大きく眉を顰める。

「あなたは……俺たちの子供に……そんな未来を望むのか?」

 沈黙が流れた。湯気が二人を包み、薔薇の香りが漂う。

「そうじゃない! 望むわけないでしょう? そういう可能性もあるって言ってるの」

 レオの声が浴室に轟いた。

「俺たちは何のために結ばれたと思ってる?」

 ジュノは顔を背けたまま。

「政治的理由だけではないわ。でも……」

「でも? なんだ!?」

 レオの拳が大理石の壁を打った。

「あなたはいつもそうだ。最初は熱烈に求めておきながら、翌朝には冷めた顔で『義務』という言葉を口にする」

「レオ……」

「義務?」

 彼の声は嘲るように高くなった。

「昨夜のあの熱い瞳は何だった? 俺を求めるあの声は? 全部演技だったと?」

「演技ではないわ」

 ジュノの声が震えた。

「ただ……わたくしたちは特別な立場にあるのよ」

「特別な立場?」

 レオが嘲笑うように言った。

「あなたは女帝に、俺は大公爵に。まるで他人事のように聞こえるがな」

 ジュノの目に涙が浮かんだ。

「わたくしはただ――」

「ただ何だ?」

 レオが一歩近づく。

「俺たちの愛を政治的に分析し、計算するのはいいだろう。だが心まで計算に入れられてはたまらん」

「そんなこと――」

「してるだろう!」

 レオが彼女の腕を掴んだ。

「昨夜の出来事を『罪』と言い換え、今朝は『武器になる』と警戒する。挙句の果てに、子供までも。あなたが本当に、俺を愛してくれているのかさえ疑わしい」

 ジュノの顔から血の気が引いた。

「私は……わたくしはただ心配しているだけで」

「心配?」

 レオの目が危険な光を放った。

「だったら他の方法もある」

「他って――」

「簡単な話だ」

 彼は彼女を放し、背を向けた。束ねた金髪が背中を滑る。

「あなたが私を本当の恋人として見られないのであれば――」

「レオ……」

「お互いが別の伴侶を探せばいいだろう? なら俺たちの子供も生まれない。政治利用される心配もないからな!」

 その言葉に浴室全体が凍りついた。水滴の音だけが沈黙を破る。

 長い沈黙が落ちる。レオの顔は悲痛に歪んでいった。そんなことは望んでいない。そう言おうとしたその時。

 ジュノが深く息を吐いた。

「そう……」

「え?」

 レオが振り向く。

「そうすればいいわ」

「ジュノ!」

「あなたが望むなら」

 レオの顔に衝撃が走った。

「冗談だろう? 俺も貴方もそんな未来は望んでないはずだ」

「冗談ではないわ」

 ジュノの声は意外なほど冷静だった。

「もともとわたくしは義務としてこの婚約に同意したのだから」

「嘘をつくな!」

 レオが彼女の前に戻ってきた。

「昨夜あなたは――」

「昨夜のことはもういいわ」

 ジュノの言葉は冷たく鋭いナイフのようだった。

「過ぎたことよ」

 浴室の空気が重苦しくなる。二人の間に見えない壁が築かれていく。

「なぜだ? 昨日までは確かに――」

「昨日までのことは忘れて」

 ジュノはタオルを体に巻きつけながら言った。

「新しい道を選ぶべきだと思うの」

 レオの目に怒りが燃え上がる。

「俺に『選べ』と言うのか? まるで取引材料のように。あなたと歩まない人生を」

「そうではないわ」

「では何だ?」

「わたくしたち二人のためよ」

「二人のため?」

 レオが苦笑した。

「一人一人のための間違いだろう」

 ジュノが口を開こうとした瞬間、浴室のドアが突然ノックされた。

「ジュノ様、朝食のお時間です」

 侍女・エレナの声が遠慮がちに響く。

「分かったわ」

 ジュノが答えた。彼女はレオを一度も見ずに浴室を出て行った。

 残されたレオは水滴の垂れる天井を見上げながら呟いた。

「これがあなたの選んだ道か……」
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