紫苑の誓約ー甘美な愛とすれ違いの愛の果てに、記憶を失くした皇太女を変わらず溺愛するー

苺迷音

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23 南方の罠

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 東の塔での対峙から、三日が経った夕刻。

公爵邸の執務室は、茜色の光に満たされていた。窓の外では、庭園の木々が静かに揺れている。夏の初めを告げる、生ぬるい風。

 レオは羊皮紙に目を落としていたが、文字は頭に入らない。ジュノの言葉が、何度も脳裏に蘇る。

『南方の令嬢と、とても親しくされているではありませんか』

 彼女の紫水晶の瞳。涙を堪えた、あの表情。

(誤解……してるのだろうな)

 羽根ペンを置き、レオは目線を窓の外にやる。遠くに宮廷の尖塔が見える。あの塔の下で、彼女は今、何を想っているのだろうか。

 コンコン。

 扉を叩く音が、沈黙を破った。

「若様、リカルド侯爵がお見えになりました」

 執事の声。レオの手が、窓枠を握りしめた。

「……分かった。通してくれ」

 扉が開くと同時に、重厚な香水の匂いが部屋に流れ込んできた。南方特有の、甘く濃厚な香り。

 リカルド侯爵。セリアの父が入ってくる。五十代半ばの男。鋭い目つきを穏やかな笑みで覆い隠している。

「アンドレウス小公爵閣下」

 侯爵が深々と一礼する。

「お忙しいところ、恐れ入ります」

「いえ」

 レオは立ち上がり、応接用の椅子を示した。

「どうぞ、お掛けください」

「ありがとうございます」

 二人は向かい合って座る。執事が葡萄酒を注ぎ、静かに退室した。

「先日、こちらへお伺いしたわたくし共の使者が、閣下に失礼なことを申したと聞いております」

 リカルド侯爵が口を開いた。その声は、丁寧で穏やかだ。

「大変申し訳ございませんでした」

「気にしておりません」

 レオが答える。

「それで……今日は?」

 侯爵は、グラスを傾けた。葡萄酒の深紅が、夕陽を受けて輝く。

「実は……」

 彼はゆっくりと言葉を選んだ。

「宮廷内で、いくつかの噂を耳にしまして」

 レオの表情が、わずかに変わる。

「噂……ですか」

「ええ」

 侯爵が頷く。その目は、レオの反応を注意深く観察している。

「小公爵閣下と皇太女殿下の間に……何か、お気持ちのすれ違いがおありなのではないかと。……もちろん」

 彼は慌てたように付け加えた。

「これは、あくまで噂にすぎず、真偽のほどは分かりません」

 レオは黙っている。

「ただ……」

 リカルド侯爵が続ける。その声は、同情に満ちていた。

「もし、もし万が一、そのような状況であるならばですが。我々南方諸侯は、閣下のお力になりたいと考えております」

「力に、とは……?」

「ええ」

 侯爵が身を乗り出した。

「北方の動きは、日に日に活発になっております。彼らは、帝国内の……微妙な状況を狙っております。特に……」

 彼は声を落とした。

「皇太女殿下に関する、様々な噂を」

 レオの手が、グラスを強く握る。

「そこで」

 リカルド侯爵が、慎重に言葉を選んだ。

「これは、あくまで一つの考えとして聞いていただきたいのですが」

「我が娘セリアが、閣下と……より親密な関係にあると、外に示すことができれば」

「北方は、容易には動けません」

 レオの目が、鋭くなる。

「親密な関係……とは?」

「例えば」

 侯爵がゆっくりと言った。

「婚約という形です。もちろん」

 彼は慌てて付け加えた。

「これは、皇帝陛下と皇太女殿下のお許しがあっての話です。私ごときが、そのようなことを決められるはずもございません。ただ……」

 彼は声をさらに落とした。

「もし、皇太女殿下がそのようにお望みになられたとしたら。我々南方諸侯は、閣下と娘セリアの婚約を、喜んでお受けいたします」

 レオは沈黙している。

「そして」

 リカルド侯爵が、まるで独り言のように呟いた。

「将来、状況が変わり……閣下が別の道を選ばれることになったとしても我々は、それを妨げるつもりはございません。その場合は即解消いたします。あくまで、北方を牽制するための……一時的な協力関係として」

 リカルド侯爵は窓の外を見た。そして、ふわりとひとつ笑みを落とす。

「これは、ただの老人の独り言です。聞き流していただいて構いません」

 再び、沈黙が流れる。

 レオは、リカルド侯爵の言葉の意味を理解していた。

(形式上の婚約……ジュノの許可があれば。そして、いつか状況が変われば、解消できる。ナターシャが人質のように嫁ぐ必要もない)

「一つ、伺ってもよろしいですか」

「どうぞ」

「なぜ、私なのですか?」

 リカルド侯爵が、穏やかに微笑んだ。

「閣下こそが、北方を最も警戒させる存在だからです」

「大公爵家の権威、軍事力……」

 彼は間を置いた。

「そして、皇太女殿下との……深い絆」

 レオの表情が、わずかに揺れる。

「我々は存じ上げております」

 侯爵が続けた。

「お二人の関係が、いかに特別なものであるかを」

 彼は慎重に付け加えた。

「ですが、閣下が別の道を選ばれるのであれば、そうですね。例えば……」

 彼は意味深に言った。

「ナターシャ様という選択肢もございます。北方の第四王子と皇太女殿下の縁談も、取り沙汰されていると小耳にしております。その牽制も必要かと考えますがいかがでしょう? その場合、閣下が我が娘と婚約をし、別の方を皇太女殿下のお相手にとなると北方の第四王子『如き』では、将来女帝となられる方の王配としては不十分でしょう」

 レオの顔が、歪む。

(妹を……)

 リカルド侯爵は、その反応を見逃さず穏やかに続けた。

「これらはすべて、閣下のご判断次第です。そして、皇帝陛下と皇太女殿下のお許しがあってこそ。私どもは、ただお力になりたいと思っているだけです」

 レオは窓の外を見た。

(ジュノ……。妹を守るためにも。そして、あなたを守るためにも)

「分かりました」

 レオが頷いた。

「検討します」

 リカルド侯爵の顔が、満足そうに綻ぶ。

「ありがとうございます、それで十分でございます。小公爵閣下」

 彼は深々と頭を下げた。

「南方諸侯一同、心より感謝いたします。あぁ最後に。これは密約として、私と閣下だけの話にとどめて置いて下さい。仮に北方や皇太女殿下のお耳に入りますと……それこそ我々の立場が危うくなります故」

「心得ました」

 レオは小さく呟くと、リカルド侯爵を見送るために共に執務室を出た。



 侯爵が去った後。

 レオは再び執務室に戻り、窓辺に立ち、そして窓をゆっくりと開く。初夏の風が部屋に入り込み、青い匂いを運んでくる。夕陽が沈みゆく空が、藍色に染まっていた。

(これでいい)

 金色の髪が、夕風に揺れる。遠くの尖塔を見つめながら、レオは小さく呟いた。

「ジュノ、俺の愛はあなただけに……」



 その頃。

 南方諸侯の屋敷では。

 リカルド侯爵が、一人で笑っていた。冷たく、計算された笑み。

「うまくいった」

 彼は椅子に深く腰掛けた。

「あの貴公子は、純粋すぎる」

 窓の外には、同じ夕陽が沈んでいく。

「さあ、次の手を打とう」
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