紫苑の誓約ー甘美な愛とすれ違いの愛の果てに、記憶を失くした皇太女を変わらず溺愛するー

苺迷音

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37 糸の解れ

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 リュシアンは、予想以上に早く現れた。

 ジュノが自室で待つこと一刻にも満たない頃、エレナが彼の来訪を告げる。

「お通しして」

 短く命じると、エレナが扉を開けた。

 青い瞳の王子が、部屋へと入ってくる。いつもの優雅な微笑は、今日はどこか真剣な色を帯びていた。

「ジュノ様。お呼びとのこと、急ぎ参上いたしました」

「ありがとう、リュシアン。エレナ、少し席を外してもらえる?」

「畏まりました」

 侍女が退室し、扉が閉まる。

 ジュノはリュシアンに椅子を勧め、対面に自身も腰を下ろした。

「単刀直入に伺います。あなたは、セリア・デ・リカルドという女性について、どう思われますか?」

 リュシアンの表情が、わずかに引き締まる。

「率直に申し上げてもよろしいでしょうか」

「ええ、どうぞ」

「不自然です。あまりにも完璧だ」

「不自然?」

「はい。彼女の周囲には、常に噂が渦巻いている。それも、彼女にとって都合の良い噂ばかりが」

 ジュノは黙って頷き、リュシアンはそのまま続ける。

「私は、隣国の王族としてその立場上、様々な貴族社会を見て参りました。噂というものは、確かに社交界につきものです。ですが、セリア嬢の場合は、誰かが意図的に流しているかのように、不自然に広がる」

「具体的には?」

「例えば『レオ様とセリア嬢がお似合い』という噂。些細な事柄ですが、いつから誰が言い始めたのか、誰も知らない。皆が『当然のこと』として口にしているそれが、根拠を問えば、誰も答えられない」

 ジュノの紫水晶の瞳は、リュシアンを見つめたまま、静かに問いかける。

「『レオとセリアが口づけをしていた』という噂も?」

「その通りです。私の側近が調査いたしましたが、実際に目撃した者は一人もおりませんでした。『誰かから聞いた』『皆が言っている』それだけです」

 ジュノは、ゆっくりと首を縦に一度だけ動かした。同意の意思。

「ジュノ様は、何かお気づきになられましたか?」

 リュシアンの静かな問いにジュノは、しばらく沈黙した後、口を開いた。

「今日、アンドレウス公爵夫人主催の茶会に出席しました」

「はい」

「そこで、セリアの嬢の奇妙な行動を目にしました。ほんの一瞬でしたが」

 ジュノはあの時の光景を語った。

 窓辺に立つセリア。窓ガラスに映る室内の様子を確認するような視線。そして、満足げに歪んだ唇。

 リュシアンは、真剣な表情で聞いていた。

「……やはり、ですか」

「やはり?」

 腕を組みをしているリュシアンは、慎重に言葉を選びつつ口を開いた。

「私の側近が、南方諸侯の動きを調査しております。リカルド家は、表向きは帝国に忠誠を誓っておりますが、裏では北方と繋がっている可能性がある」

 ジュノの表情が、小さく固まった。

「北方……第四王子?」

「ご明察です」

 リュシアンの声が、低く沈む。

「北方第四王子は、殿下に求婚しておりますね」

「ええ。陛下が断ったと聞きました」

「その彼が、今、密かに動いている。南方と手を結び、帝国を内側から揺さぶろうとしているのではないか。そう、私の側近は報告しております」

 ジュノは、窓の外を見つめた。

 北方第四王子。野心家で知られる男だ。帝国を手に入れることができれば、南北に分断し、それぞれを統治する――そんな野望を抱いていても、不思議ではない。

「それだけではありません」

 リュシアンが続ける。

「南方から、妙な薬が流れ込んでいるという報告もあります。麻薬の類ではないかと。先日、市場でお話しましたね? あれは南方からの書簡でしたが……」

「麻薬?」

「はい。詳細はまだ掴めておりませんが、一部の貴族たちの間で密かに流通している可能性がある。ルートとしてもしも、それがリカルド家と関係しているのだとすれば」

 ジュノの拳が、強く握りしめられた。全てが、繋がり始めている。
 セリアの陰謀。北方の野望。そして、麻薬。

「誰が、どこで、何をしているのか」

 ジュノが、静かに呟く。

「全体像を把握する必要があるわね。敵の顔も、動きも」

 リュシアンは、しばらく考え込んだ後、口を開いた。

「でしたら、一つ提案がございます」

「提案?」

「この時期、帝国では狩猟大会が開催されますね」

「ええ」

「その規模を、少し大きくしてはいかがでしょうか。隣国の賓客も招き、盛大に」

 ジュノの瞳が、鋭く光る。

「一同を、同じ場に集める、ということ?」

「その通りです。南方の諸侯も、北方の使節も、全てが一堂に会する。そうすれば、彼らの動きを観察できる。誰が誰と接触しているのか、何を企んでいるのか。主催は私ということにしておけば、変に勘繰られることもないでしょう。様々な地域の交流と言う名目も立つ」

 ジュノは、ゆっくりと頷いた。

「なるほど。確かに、それなら自然に監視できるわね」

「はい。そして」

 リュシアンの青い瞳が、ジュノを真っ直ぐに見つめる。

「もしも、彼らが何か企んでいるのなら、必ず動きを見せるはずです。狩猟大会という場で、何かを仕掛けてくる可能性もある」

 ジュノは、リュシアンの言葉の意味を理解した。

 危険を伴う。

 だが、真実を明らかにするためには、必要な賭けだ。

「……わかったわ。陛下に進言してみます」

「私からも、隣国の外交使節員として、陛下に申し出ましょう」

 リュシアンが、静かに微笑む。その微笑には、優しさと共に何か、別の感情も混じっていた。ジュノは、それを見逃さなかった。リュシアンは、王配候補。今この瞬間、リュシアンはジュノの味方として動いてくれている。それは王配候補と言う以上に、ジュノにとって心強い存在でもあった。

「ありがとう、リュシアン」

 ジュノが、静かに礼を述べる。

「いいえ。私は、ジュノ様のために動いているだけです」

 リュシアンは、そう言って一礼した。

「では、失礼いたします。準備を進めましょう」

 彼が部屋を後にした後、ジュノは椅子に深く座り直し、大きく息を吐いた。

 夕暮れが、深い夜へと移り変わろうとしている。薔薇の花々は、闇の中で深紅の色を失い、ただ黒いシルエットとなって揺れていた。

 狩猟大会。

 全ての駒が、同じ盤上に揃う。そこで、何が起こるのか。

 ジュノの胸に、不安と決意が入り混じる。だが、もう迷わない。真実を明らかにし、レオを救い出す。それこそが今、自分がしなければならないこと。そして、彼を真に守るということ。
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